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「これに免じて、さっきの事は水に流してくれないかな?」
マスターのその言葉に大きな瞳をさらに大きくした彼女は、「もちろん」と優しく微笑んだ。マスターと彼女の優しさに胸が締め付けられ、どうしようもなく何かがこみ上げてくる。
さっきは思わず声を荒げてしまった。俺自身が蓋をして胸の奥に仕舞い込んでいる部分に触れられてしまう気がしたからだ。ただでさえ彼女から良い印象を受けていないのに…。あの一言で完全に彼女から嫌われたと思った。
もっと他に言い様があったはずなのに!
何をやっているんだ、俺は!
自己嫌悪に苛まれ、彼女とどう目を合わせれば良いのか分からず、ただ気まずい空気だけが流れていた。
そんな俺たちの間を割って入ったのはマスターが作ってくれたドリアだった。俺は小さい頃からマスターが作ってくれるこのドリアが大好きだった。
ドリアを口にした彼女は、すぐに頬を緩ませ、とろけるような笑顔で「美味しい!」と俺を見た。
その笑顔が…そう、とても眩しくて。
可愛くて……。
あぁ、だめだ。胸が苦しい。
若干その笑顔がドリアによってもたらされたものというのがふに落ちないが。
そして極め付けのケーキ。本当にマスターには頭が上がらない。幸せそうに頬張る彼女を見れて、これ以上の幸せはない。それなのにもっと見たい、今度は俺自身の手で彼女を笑顔にしたい。そう思ってしまうのだから…。どこまで欲深いんだ、と思う。
「あまり良い思い出がないんだ」
コーヒーを啜りながら紡いだ言葉に彼女の手が止まった。
「子供の頃のことはね」
今まで誰にも自分の子供時代の話はしたことがない。もちろん陸やマスターはその頃からの付き合いだから、言わなくてても知っているのだが。
「いつか聞かせて下さい」
目の前で微笑む彼女。少し口元に付いているクリームですら愛しいと感じる。
「課長がどんな子供だったのか…すごく興味あります」
口元に手を当て、何を想像したのか笑いを堪えている。まぁ、どんな想像をしているのか容易に予想できるが。
今はまだ難しい。自分の中ですら整理が出来ていないのだから。でもいつか話したいと思える日が来る。彼女を見ているとそう思う。
俺の"家族"。あの人達のことを。
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