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その後、あいつとこのことについて一切語ることはなかった。職場では常に人目があったし、仕事後に飲みに行くような間柄ではなかった。もっとも、飲みに行ったとしてもこの話題は避けて通ったことだろう。俺としてはあんな狡猾な手に嵌まったことが余りにも屈辱的で、犯罪に加担したという罪悪感もろとも、もう思い出したくなかった。それにもしうっかり話をして、隣の客や店員の耳に入ったら?九条も俺も、ひいてはこの国を支えるシステムも一巻の終わりだ。
ニュースキャスターは時折不正妊娠・出産の摘発を悲しげに、あるいは怒りを交えて読み上げ、その度に所長は人口管理局の職員としての倫理観を説いた。俺はいつかあのことがバレるのではないかと冷や冷やしたが、幸いにして俺の周りには何事も起こらなかった。あいつがとある研究成果を認められて、外国の研究機関に出向してしまってからは、時折専門誌にあいつの論文が載るのを見るくらいで、直接動向を知ることもなくなった。…結婚式の招待状が来るまでは。
「ずいぶんと若い奥さんなんですねえ。21XX年生まれってことは・・・16歳ですか?」
「犯罪すれすれだよなぁ。あいつの澄まし顔の下はロリコンだったなんてなぁ。」
殆ど音信不通だったのに、なぜ今更式に招待されたのか。俺にはあの時の義理か…という思いがないこともなかったが、俺の隣に座っている研究員の岩井は、俺以上に心当たりがなかったことだろう。他のゲストともそこまで縁が深くない、そんな俺たちがすることといえば、この場とは関係ない内輪の世間話をするか、新郎新婦のプロフィールを眺めながら、与太話に花を咲かせることぐらいだ。同業のお偉方も多数呼ばれているので、ここで顔を売っておいた方がいいのかもしれないが、一応祝いの席だし、こんなところに来てまで米つきバッタのようなことはしたくない。
すると、向こうからモーニング姿の白髪の男性と、今時珍しい黒留袖の女性が挨拶をしにやってきた。俺たちは毛の長い絨毯のせいで滑りの悪い椅子を無理に引いて立ち上がり、新郎家族と招待客にありがちな、通り一遍の挨拶を終えた。
「九条の母さん、やたらと若くないか?」岩井にささやくと、彼は事も無げに言った。
「九条さん、小さい時に実の母親を亡くしてるんですよ。あの人はお父上の後妻さんなんじゃないですかね」
「良く知ってるなお前」
「いやまあ、たまたま聞いたことがあるだけですよ」
間もなく会場の照明が落ち、アナウンスとともに会場後方の扉が開いた。九条の隣でうつむき加減にしている新婦の顔を見て、俺は言葉を失った。
(瓜二つじゃないか・・・。)
「義理とはいえ母親似の女性と結婚するなんて、九条さん、ロリコンかつマザコンだったんすねー。あ、でもお母さん冥利には尽きるってことなんすかね」
岩井は相変わらず呑気に冷やかしの言葉を吐いている。俺の脳裏には新婦の出生年号がぐるぐると周り、あの時の「外部のつて」という九条の言葉、そしてにわかに、はるか昔に習ったある文学作品の冒頭文がはっきりと思いだされたのだった。
「いづれの御時にか、女御・更衣あまたさぶらひたまひけるなかに、いとやむごとなき際にはあらぬが、すぐれてときめきたまふありけり…」
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