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いくら今日のA定食が大好物のカツカレーだったからって、調子に乗って大盛りにするんじゃなかった。いつも通り食堂でのランチを終え、最近縦横無尽に拡がり始めた腹をつねりながら、俺が渡り廊下を歩いていると、遠くから猫の鳴き声のような声がかすかに聞こえてきた。
ラボに近づくにつれ、その声は廊下の壁に反響して段々と大きく、はっきりと聞こえはじめ、俺の疑念は確信に変わった。これは猫じゃない、人間の赤ん坊の泣き声だ。
うちの職場に赤ん坊がいること自体は、全く問題のないことだ。ただし、それは試験管や人工子宮に入っている場合であって、十月十日を経て人工羊水から出された赤ん坊は、ほとんど泣き声を上げる間もなく、柔和なバース・コーディネーターの手に渡される。そもそも今日は月一回の本部会議で、ラボには留守を預かる限られた人間しかいない。従って出産作業の予定はなかったはずだ。人工子宮のどれかに何か問題が起こったのか。俺は急いでラボの入室認証に手をかざし、マスクやゴーグル、首から下を覆う特殊滅菌白衣を着こむのももどかしくラボ内に入った。
「ああ、藤原さん。お疲れ様です」
もうラボに戻ってきていた九条が、いつもの冷静な表情で話しかけてきた。彼の腕には、さっきの声の主であろう赤ん坊が抱かれている。赤ん坊はきちんと産着を着せられているし、ラボ内はいつもの通り、床にチリ一つない清潔そのものだ。俺は人工子宮が破損して、ラボ内が特殊プラスチック片や人工羊水まみれになっている様を想像して来たので拍子抜けしたが、何も問題がない筈がなかった。なにしろ、そこにいるべきでない赤ん坊がいるのだから。
「ラボの外からも聞こえてきたぞ。その赤ん坊、一体どうしたんだ?」
まだ事情の呑み込めない俺が九条にこう問うと、彼は悪びれもせず淡々と言った。
「驚かせて済みません。これは僕がさっき『出産』させた、僕の子供なんです」
「…なんだって?」
隣の席なのに、普段まともな会話一つない男が俺に「済みません」と言うのも前代未聞なことではあったが、「僕の子供」?彼がこともなげに言うそのセリフを、俺は聞き流すことができなかった。
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