半魚人の夢

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『おはようございます。起床の時間です』  瞼を上げると目の前に女の顔があった。彼女は睡眠を管理するAIだ。すぐにわかる。私が起き上がると服が部屋着からスーツに変わった。ドアを開けると筒のような転送ポッドが相変わらずそこにあった。これはチューブのようになっていて、ポッドが吸い上げられるように動いてどこかに移動できることが分かった。私がポッドの中に入るとAIである彼女もその中に入った。 「睡眠効率良好、安定した眠りに入っています。中途覚醒の兆候はありません」 「これは夢か」 「はい。これは夢です。完全に統制された安全な夢を提供しています」 彼女が言うのならきっとそうなのだろうと感じた。 「夢の中でどこに行くんだ」 「これは貴方の夢なので私にはわかりかねます」  それはそうかと妙に納得してしまった。目の前に半透明のキーボードが現れる。どうやらこれに場所や座標を入力するとその場所につくらしい。私は少し考えた後、適当に座標を打ち込んだ。特に行きたい場所もないし、かといってここに留まるのは嫌だと思ったからだ。  私が数字を入力していくと予想通りポッドがゆっくりと動き始めた。チューブのような中を通って進んでいる。私は何となく食べたものが内蔵の中を通っていく様子を想像した。外は白い霧がかかっていてよく見えない。この霧は外せないのかと彼女に聞くと、できるにはできるが私にはできないと答えた。私も彼女には無理な気がしていた。だから仕方なく私たちは白い霧の中を透明なチューブに沿って進んでいくことになった。  霧の中を進むと気が滅入るかと思ったが案外そうでもない。霧は不気味だが、どこか懐かしいような気もしてすこしわくわくした気持ちで外を見つめていた。これは完全に統制された安全な夢なのだし、悪いことは起きないだろうと思ったからだ。  しばらくすると塩の香りがしてきた。海の香りだ。港町なんだな、と急に考えが浮かんだ。そう思った瞬間に霧から小屋や網や漁師の使う道具が見えた。海だ、海が近いのだ。私は少し嬉しくなった。  塩の香りはどんどんきつくなっている。私の心臓の音もきつくなっている。私は息苦しさを感じて首についていたネクタイを外した。案内人の彼女はその様子を黙ってみていた。霧の中から魚の姿が見えた。しかし魚にしては随分大きい。透明なひれやしっぽの他に大きな手の間についた水かきを私は見た。それが虹彩を閉じ込めているように霧の間できらきらと輝いていて、私はどうしてもうらやましくなった。私もその透明なひれやしっぽや水かきが欲しいと思った。  やがてポッドの動きが止まった。扉が開き私は外に出た。やはり港町だ。きつい潮の香りがする。いい匂いだがどこかつんとした、何かが腐った香りもした。それも含めて私はこの町が悪くないと思えた。  町を歩くとひたひた、と音がした。ひれを持った者が無理やり歩いているような、何かを引きずっているような音がする。きっと海の方だ。私は海岸を目指して歩き始めた。場所はすぐにわかる。白い霧が濃い方向だ。波の音がした。海だ、海がきっとそこにあるのだ。霧の方へ近づくとやはり海のにおいが近くなる。木組みの桟橋の上を私は歩いた。後ろに彼女がついてきていた。  桟橋の端まで来て、私は水面を覗き込んだ。海の中に何かがいる。海の中に顔が見えた。目と目の間が酷く離れ、黒い瞳でひらべったい輪郭。髪の毛のようなものはなく、表面は全体的につるつるとしていた。しばらくそれと見つめあうと、急に身を翻して海の中へ消えていった。海に消えるときに虹を閉じ込めたようなきらめくしっぽが見えた。 「私も飛び込んでみていいだろうか」  そう聞くと彼女は少し渋い顔をしながら「しかしもう戻れませんよ」と答えた。  その途端体がすごく重く感じた。しゃがんでいた私はもう立ち上がれないだろうなと思った。そのまま転がって海に飛び込んだ。白い泡としぶきが立って、体を包み込んだ。海は冷たくて暗くて、それでも私は心地いいと感じた。  手を伸ばすと指と指の間に水かきが見えた。あぁ私は魚だったんだなと思った。  『さよなら』というと口から泡が出た。深い海に呼ばれている。私は光るしっぽを翻して泳ぎだした。 「」  彼女は私のしっぽを掴んで海から引き摺り出した。桟橋の上にそのまま投げ捨てられる。大きく息を吸うと肺に空気が入った。私はまた魚になれなかったのだと感じた。遠くで目覚ましのベルが鳴っている。失敗した。私はまた人間のふりをしなくてはならない。       『おはようございます。起床の時間です』
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