マリッジブルー

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マリッジブルー

「花嫁がいなくなりました」  後輩の園田が電話をかけてきたのはまだ太陽が昇って間もない午前六時の事だった。普段ならまだ寝ている時間にそんな話を聞いた俺は一瞬理解が遅れる。花嫁が、いなくなる?俺はスマホのカレンダーを見た。黒い字で書かれた仕事用のイベントの中に一つだけ赤字のものがある。「花梨・園田結婚式」、おいおいどう見ても結婚式は明日だし今日は式の前日だ。 「……お前、心当たりはないのか」 声を潜めて、園田にそう尋ねる。園田はだいぶ動揺しているようでいまいち要領が得ない。そういやこいつ、突然のトラブルに弱いタイプだったな。なんで俺がこんな事に、一瞬そんな考えが浮かんだがもう仕方がない。 「今すぐそっち行くがいいな。それまでに頭冷やしとけよ」 素早く言うが早いか俺は電話を切り、立ち上がった。鞄を掴み、外に出ようとしたところでふとガラスに映った自分に気が付く。乱れた頭に、無精ひげを生やした男……これはよくない。  とりあえず髭を剃るところからだな、そう思うと自然とため息が出た。  俺も動揺しているのだろう。普通そんなことあり得るか? 式の前日にいなくなるなんて。 でもきっとあり得るのだろう。園田は信じてしまう。なぜならそんな彼女にずっと振り回されてきたのだ。そして俺も。    ――今村花梨、それが彼女の名前だった。    ***    「梶井君が彼女出来ないのは面白くないからなのよ」  頭の上から声が降ってきた。  「なにって」  顔を上げるといつの間にか花梨が目の前に座っていた。今村花梨、俺の同期である。染めた茶髪が淡い照明で光って見えた。半分ほど残ったジョッキを持ったまま、俺の方を見ている。沢山の喧騒が飛び交っている居酒屋では声を張り上げないと聞こえない。今は特に新入生を迎えて最初の飲み会が行われる時期で周りも浮き足立っている。俺たちのテーブルは皆既に出来上がっていて、誰のものかわからない大量のグラスと冷めたポテトフライが並んでいた。  「だぁかぁらぁ!」  花梨はまた声を張り上げた。酒のせいか額に少し汗が浮かんでいる。  「面白みがないって言ってんの、梶は」  はぁ、と言った大きなため息。飲み会になるといつもこの話になる。  「もういいって、俺はもうあきらめたんだから」  「本当かぁ?」  疑わしそうな目で花梨はこちらを見た。ろれつが少しだけ回っていない。滅多に酔ったりはしないのに、場所に酔ったんだろうか。それにしては随分悪質だ。  「やめてくれよ、掘ったってこっちは空しくなるだけだぜ」  「自分に嘘つく方がよっぽど空しいと思うけど」  「言うねぇ」  「で、ホントのとこどうよ?」  「それは……」  これは言わないと満足してくれないんだろうな、その考えをぬるくなったハイボールで押し流す。  「欲しいよ、彼女。できれば」  「だっよね~」  安心したよー、と言って花梨はまたジョッキを傾ける。いやちょっと待ってこれ全然ないじゃん、誰かピッチャー回してよー。花梨の目線は定まらない。全体的にとろけた居酒屋の空気で花梨の目も溶けているようだった。  「梶、前はことあるごとに『彼女欲しい、彼女欲しい』って言ってたのに最近言わなくなったから心配してたんだよね。やっぱり男は捨ててなかったんだね、えらいえらい」  撫でようとした手を振り払う。  「嘘つけ、そこまで言ってないだろ」  「言ってたよー毎回こういう飲み会の時に、酔いが回ってきたら必ず『彼女欲しい』って」  花梨は近くで騒いでいる連中を見てそういった。なかったことにしてほしい記憶ほど、みんなの記憶からは消えてなくならないものだ。  「もう諦めたんだよ俺は。もう友達と楽しく生きてく」  「あきらめんなよぅ。梶、顔はいいんだからきっとうまく引っかけられるって」  「おいそのジェスチャーやめろ」  丁度、釣竿をリールを巻いていた花梨は手を止める。  「そしてキャッチリリース?」  「しねぇ!」  「まぁまぁそんな怒りなさんな。きっと運が巡ってくるさ」  「その運が生まれてこの方巡ってこないから困ってるんだが」 そういう時は飲むしかないな、花梨は勝手に俺のジョッキへピンク色の酎ハイを注いだ。味はピーチかイチゴか、それすらわからない。ただきっと、その酒はひたすらに甘い。  「私は梶のこと優良物件だと思ってるんだけどなぁ。なぜなんだ、我がサークル七不思議のひとつ」  「さっきあんな悪口いっといてよく言うな」  「悪口?」  「面白くないとかどうとか」  「あぁ」  花梨はまたぼぅとどこかを見つめだした。潤んだ瞳が電球の光に照らされ強調されている。もう相当に眠いのだろう、花梨は大きく欠伸をした。  「悪口じゃないよ、それは――」  呟いたように言った言葉が脂ぎってべとべとした居酒屋の中で、妙に耳にこびりついた。
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