五月晴れ

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五月晴れ

「どうしても手に入れたい女がいるんだ」  そう語り、来なくなった人がいる。彼が私の店に来なくなって、もう五年が経つ。スーパーや果物屋の店頭で生梅を見る季節になる度に、私は彼のことを思い出す。今年もまた、その季節が来た。私は高くなった空を見上げてから、生梅と氷砂糖を購入した。  彼が私の店に初めてきたのは、ちょうど今と同じような、梅雨時の夜遅くだった。天気予報で梅雨前線の情報が流れるようになったその日は、天気予報が正しいことを証明するように空は灰色に暗く染まり、今にも一雨きそうな様相を呈していた。ちょうど客の回転が止まり、店にはお客が誰もいない状態だった。私は入り口を開けてドアに寄りかかり、むせかえるような暑い空気とあたりに立ち込める雨の気配を感じていた。 「おしまい?」  煙草を口にくわえて、彼はやってきた。 「いえ、朝までやっていますよ。どうぞ」  私はドアを開けて彼を中に通した。彼は店に入るとまっすぐに、カウンターの一番奥に座った。手にしていたギターケースは大事そうに自分の隣に立てかけていた。 「あ、邪魔?」  ギターケースを指差した。私はいいえと首を横に振った。 「他のお客様がいらしたら倒れてしまうかもしれませんから、奥でお預かりします。けど、それまではかまいませんよ」  よかった、と微笑んだ彼の笑顔を、私は忘れることができない。まるでギターが自分の一部で片時も離れたくないと思っているかのようで、彼の純粋な微笑みに胸が鳴った。バンドを組んでいるのであれば、きっと彼は人気者だろうと思った。彼のこの笑顔を見て心惹かれない大人はいないだろう。そう思うほど、子供のような無邪気で純粋な笑顔だった。  彼がビールを飲んでいると、携帯電話が鳴り、彼の顔がぱっと明るくなった。ぺこりと頭を下げて携帯を片手に彼は店の外に出て行き、戻ってきた時には梅雨空と同じ、暗い顔をしていた。 「マスター、雨、降ってきたよ」  彼はそれだけ言って、カウンターに座りなおした。 「バーボン、ちょうだい」  そしてフォアローゼスをロックで浴びるようにして飲み始めた。大丈夫かと心配してチェイサーに水を置いてみるものの、彼は水には全く興味を示さずに、ただひたすらバーボンを呷り、そのうちカウンターに突っ伏して眠ってしまった。やがて彼は寝言で女性の名前を呼び、目を覚ました。 「すみません、寝ちゃって……。いくらですか」 「もう少しで雨が止みそうですよ。それまで、どうぞごゆっくり」  会計をしながら私は彼にそう言った。何故だろうか、彼のまとう空気が好ましくて、帰って欲しくないと思ったのだ。彼は私の言葉にはにかむような笑みを見せて、ありがとう、と言った。  それから彼は、月に一度か二度、やはり同じように夜中にやってくるようになった。ギターケースを持っている時も、手ぶらの時もあったが、あの微笑みと優しい空気はいつも彼と共にあった。話をするうちにわかったことは、彼はそれなりに有名なロック・バンドのギタリストであることと、報われない恋をしているということだった。  結婚を約束した相手がいる女性を、彼は愛していた。彼女が自分を愛してくれているのかはわからない、と彼は悲しそうに言う。俺が強引に誘っているから一緒にいてくれるだけかもしれない、でもそれでもいい、と。だが彼女は決して、夜を一緒には明かしてくれない。必ず、日付が変わる前に自宅へ戻っていく。その自宅には彼以外の男がいて彼女を待っている。それが苦しくて辛くて悲しくてたまらない、と彼は酒を呷る。 「俺以外の男がいる家に帰っていく彼女も、俺以外の男を待つ彼女も嫌いだ。けど、俺を見て俺に笑ってくれる彼女は、愛しくてたまらない。全部を嫌いになれれば、どれだけ楽だろうかといつも思うけど、そんなことができるなら苦労はしないんだ」  喉の奥から搾り出すようにして、彼は彼女を愛していると言う。言ったすぐ後に、不毛だよなと乾いた笑いをもらす。うちへやってくるごとに、私が胸を躍らせた彼の少年のような笑みは、彼から消えていった。  ある日、彼がやってきたのはまだ開店してすぐの時間だった。そんな時間に彼がくることは初めてで、私は驚いた。彼がうちへやってくるのは決まって夜中、彼女と別れた後の寂しさを酒で癒すためだ。それがこの一年で私が学んだ、彼の行動パターンだった。 「珍しいですね」 「うん。そうだね。早い時間のこの店はどんなかなと思ってさ」  彼はそう言って笑った。久しぶりに、彼の笑顔が見られて私はほっとした。何かいいことがあったのかと思ったのだ。すると彼は、カウンターに座るなり、ビールではなくフォアローゼスをオーダーして、俯いた。 「ねえマスター。ひとりごと、言ってもいいかな」  グラスの中の氷を指で回して、彼は言った。 「バーカウンターのこの板は、お客様の気持ちや人生を受け止めるためにあるものです。それに、ひとりごとを禁止するルールなんて、どこにもありませんよ」 「ありがとう」  微笑んだ彼の笑みは、今までの子供のような無邪気な笑顔ではなく、何かをふっきった大人の笑顔だった。私の胸がチクリと痛んだ。 「どうしても手に入れたい女がいるんだ。欲しくて、欲しくて、気が狂いそうなんだ。この間、彼女と初めて一緒に眠ってさ、嬉しくて、俺、もうこのまま時間が止まればいいって思った。それだけでこんなに嬉しくてたまらないなら、毎日一緒にいられたらどんなに幸せだろうって。彼女を手に入れられるなら、他の全てを失っても構わないんだ――だから、捨てることにしたよ」  顔を上げた彼は、私をまっすぐに見つめていた。言葉通りに受け取れば、彼はきっと彼女を連れてどこかへ消えることを決断したのだ。それに彼女も同意しているのかどうかはわからなかった。だが、同意していようがしていまいが、彼は行動するのだろう。それだけの重い決意がこめられた視線だった。 「――フォアローゼスは、ある女性に恋をした男性が作ったバーボンです。彼はある夜の舞踏会で、ある女性に恋をします。いてもたってもいられなかった彼は彼女にプロポーズしたのですが、彼女は即答しません。次の舞踏会まで返事は待ってください、もしもプロポーズを受けるのなら薔薇のコサージュをつけてきます、と彼女は言います。待ちに待った次の舞踏会の夜、彼の前に現れた彼女の胸には、四つの赤い薔薇があったそうです。恋を成就させたシンボルの薔薇が、フォアローゼスの名前とラベルの由来なんですよ――そしてここから先は、私のひとりごとです。うちのお客様に、恋をしている方がいらっしゃいます。私は彼の笑顔が大好きです。けれど最近はその笑顔が見られず、とても心配しています。彼がまた笑顔を取り戻すために、彼に四つの薔薇のご加護があればいいと、私はそう祈っています」 「――四つの薔薇の加護が俺にもあると、信じてるよ。ありがとう、マスター」  その日は彼が初めて来た時と同じ、今にも雨粒が落ちてきそうな、黒い雲が空を覆っていた。風には雨の匂いが混じり、空気はじめじめと湿っていた。けれど彼の最後の笑顔は、天気とは裏腹に実に晴々としていた。そして彼は初めて来た時と同じように、笑顔だけを残して姿を見せなくなった。  それが今から五年前の、梅雨のある夜のことだった。  店を開け、誰も客がいないのをいいことに、私は買ってきた梅のヘタを竹串で取り続けていた。梅のヘタを取って洗い、広口の瓶に梅と氷砂糖を交互に入れ、最後に酒を入れて蓋をする。二、三ヶ月で飲めるようになるが、作った酒によっては一年ほど置くと深みとコクのある味になってくる。私は今回は焼酎を使うことにした。ブランデーや日本酒で作ることもできるし、氷砂糖ではなく蜂蜜でもいい。その家ごと作る人ごとに、様々なレシピがあり味があるのが、家庭で作る酒のいいところだ。 「久しぶり。マスター、元気だった?」  驚いたことに、入ってきたのは彼だった。以前は体の線も細く、神経質そうな顔をしていたが、五年ぶりに見る彼にその面影は全くなかった。日に焼けた顔と体、がっちりと筋肉がついた肉体、穏やかだが芯が強そうな顔つきの、大人の男に彼は変化していた。 「ご無沙汰しています。私は相変わらずです。あなたも、お元気そうでなによりです」  彼はいつものように、カウンターの一番奥に座った。私の手元を見て、梅酒? と微笑んだ彼の笑顔は昔と同じで、私は何故かほっとした。  四つの薔薇の加護を信じていると言った日の一ヶ月も前に、もう最後にしようと彼女に告げられていたと彼は初めて語った。最後の賭け、と彼は彼女を奪うことを決めた。北の土地に家と仕事を見つけて、あの日、うちへ来たのだという。 「今はおふたりでいらっしゃるんですね」 「うん。でも、バーボンやバーとは縁遠い生活になったな。昔みたいに洋酒を飲んだり、バーに行くことがなくなって、寂しい気持ちもあるんだ。彼女を手に入れるために、そういうもの全て捨てて、本当によかったんだろうかって。彼女にも捨てさせてしまってよかったのか、今でも悩んでる」  ぽつりと吐き出した彼の本音が、そこにあった。私は、白いキャップのボトルを取り出した。ロックグラスに氷を入れ、ルビー色の液体を注ぐ。どうぞと差し出すと、彼は赤い宝石のようなリキュールを口に含んで、ふわりと笑みを浮かべた。 「これはスローベリーという果実をジンに漬けてできる、スロージンというリキュールです。スローベリーは、西洋すももといって、イギリスではどこでもみかける一般的な果実だそうです。秋になると野生のスローベリーをつんで、ジンと砂糖で漬ける――それを製品化したのがこれですが、元々はその家ごとの配分があって、家庭によって味が異なる、いわゆるイギリスのおふくろの味みたいなものなんです」 「日本でいう、梅酒みたいなものだね」 「ええ。厳格な製法や配分、材料が決まっているワインやウィスキーも、バーテンダーが作るレシピ通りのカクテルも、もちろんおいしいものです。それぞれのプロが作っているのだから、当たり前です。けど、家庭で作るスロージンや梅酒がそれに劣るとは私は思いません。ホームメイドのお酒には、作った人の飲む人への気持ちが、材料外で一緒に漬け込まれているんですから、むしろそちらのほうがおいしいのかもしれませんよ」  彼はその後、もう一杯スロージンを飲んで、帰っていった。私が好きな笑顔を残して。けれど今回は、またくるよ、という言葉も残してくれた。そういえば今日は、まるで彼の笑顔のような爽やかな空と風の、梅雨の間の貴重な晴天だった。彼のたくましくなった後姿を見ながら私は、次に彼が来た時にはカウンター席を二席用意しないとな、と思っていた。  翌日俺は、新幹線と在来線とバスを乗り継いでアパートへ戻った。東京と同じ国にあるとはとても思えないこの小さな町が、俺の暮らす場所だ。人気バンドのギタリストという地位も、ギターも、音楽すら捨てて手に入れたのは、毎日汗だくで働く毎日と、質素で貧乏な今の暮らしと、そしてお前の笑顔。これが四つの薔薇が与えてくれた、今の俺の生活だった。  玄関を開ければお前が微笑んでくれる。靴を脱ぐのももどかしく、俺は靴をはいたままお前を抱きしめる。おつかれさま、と俺の腕の中でお前は囁いた。背中に回されたお前の指の力が、俺の胸を暖かくする。 「ただいま」  ぱっと顔をあげたお前の瞳と、俺の視線がゆっくりと絡み合う。おかえり、と小さく聞こえた瞬間、俺はお前の唇を塞いだ。一日抱いていないだけなのにこんなにも懐かしく感じるなんて、俺も相当イカレてる。一日ぶりのお前の唇を堪能してから、食事や風呂をすませて、いつものようにのんびりと夜を過ごした。 「おいしくできたかなあ」  コップをふたつ持ってきて、ひとつを俺に差し出した。蜂蜜色の飲み物が入っていた。 「去年漬けた梅酒。最初に味見して」 「毒見?」 「味見!」  笑いながら俺は梅酒を一口、口に含んだ。ほんのり甘くて飲みやすい。喉を過ぎて腹に入ると、じんわりと体を温め心をほぐしてくれた。 「うまいよ。また今年も作ろう。今年は梅干も作ろうか」 「そうだね。来年もおいしくできるといいな」 「できるさ」  ホームメイドの酒には、作った人の飲む人への気持ちが一緒に漬け込まれている。マスターはそう言っていた。それならまず間違いなく、うちの梅酒は世界一のうまさに違いない。これがバーボンやギターの代わりに手に入れたものだとしたら、これはこれで悪くない。  いつかふたりでマスターを訪ねようと思った。その時は、スロージンと同じ赤い色の梅干を手土産にすればいい。来年の今頃、梅雨の雨宿り代わりに、バーのカウンターで時間を過ごそう。  そう決めて、俺は世界一の梅酒を飲み干した。  ――了
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