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そして、今に至るのだ。
ファミリーレストランで今、その人と私は向かい合っている。
辰巳良子と名乗ったその人は、とても上品な紫色の服が似合う、老婦人だった。そこそこお金に余裕があるのは見て取れるが、しかし化粧が濃すぎる印象もなく、笑顔にもイヤミがない。それは彼女が、開口一番私に頭を下げてきたからというのもあるだろう。
「ありがとうね。貴女なんでしょう?私が落とす手袋を、いつも拾って届けてくれたのは」
「そう、ですけど……」
「本当にありがとう。年寄りの、ちょっとした趣味みたいなものなのに……貴女は何十回も付き合ってくれたわ。それが本当に私、嬉しかったの。本当によ」
ちょっとした、趣味?首を傾げる私に、彼女は少しだけ苦笑気味にこう言ったのである。
「私、夫が死んで何年か経つのだけれどね。晩年のあの人の口癖はそれは酷いものだったの。世間への愚痴ばっかりよ。やれ人は冷たい、やれ世間は老人に厳しすぎる……そういうことばっかり。私はそれがすっかり嫌になってね。そんなことはないってあの人に見せつけてやりたくて。思いついたのがね……こういうことだったのよ。趣味というより、実験ね。片方だけの……あの人が昔くれた手袋をわざと落としてみて。拾ってくれる人が、現れるのかどうか」
そうしたら、落としたその日にはもう交番に届けてもらえてたんだもの、と彼女は破顔した。それはそれは嬉しかったのだ、というように。
「つい、もう一度落としても届けてもらえるのかな、って思って試してしまってね。届いていることを知るたび、嬉しくて嬉しくて……人は冷たいものだ!なんて愚痴って逝ったあの人にちょっと“ざまあみろ!”なんて気持ちにもなったりしてね。……本当にごめんなさいね。貴女の厚意を、利用するような真似をして」
その言葉からは。これでもう終わりにするから、という意図が透けていた。実際、自分がやってきたことの意味を全て私に種明かししたのは、そういうことだろう。この本音を語った上で、また手袋を拾って貰えるなんて彼女もきっと思っていまい。確かにそれは、厚意を利用されたと言っても間違いではないからだ。
ただ、と私は思う。
彼女は何故こんな行動に出たのか、と。旦那さんは愚痴ばかりの人だった、見返してやりたかった――そんなことばかりを言うけれど。彼女は本当は、一人になってしまった寂しさをどうにか紛らわしたかったのではなかろうか。お金がいくらあっても埋まらない孤独を、本当は誰かにわかってほしかったのではなかろうか。
――わかる気は、しちゃうなあ。私だって、本当は……一人暮らしってだけで、寂しくてたまんないもん。
何故、自分があの手袋にずっとこだわっていたか。あの手袋がなくなったと思った時、目の前が真っ暗になったのはどうしてだったのか。
そして私が、本当に“助けたい”“恩返ししたい”と思ったのは。手袋を拾ってくれたこと、だけではなくて。
「……あの」
ただの自己満足なのかもしれない。でも。
「私、佐倉夏奈って言います。ご近所に、住んでらっしゃるんですよね。……もし、良かったらその……今度、ご自宅に遊びに行ってもいいですか?」
初対面の相手に、こんなことを言われたら迷惑かもしれない。私の予想は、完全に斜め上で外れているのかもしれない。少しだけ緊張した、数秒の後。
「……私、若い人のお話とか全然わからないけれど、それでもいい?」
老婦人は、泣き出しそうな顔で笑ったのである。
もうすぐ三十歳になる私に出来た、年上の“友達”。手袋から始まった絆で、私の世界はちょっとだけ広がったのだ。
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