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朝練後の部室は、汗臭さがこびりついてかなわない。だから混み合う時間を遠ざけて、人気が引いたところで着替えにいくことにしていた。この部に入ってからすぐになんとなしに決められたような、あいつと俺だけの暗黙の了解だった。
今日もあらかた部員が引き上げた後、誰もいない部室に一人で入る。自分の名前の書かれたロッカーを開き、昨日持って帰り忘れたジャージと向き合う形で俺は着替え始めた。今日は二倍の量を持って帰らなきゃいけないのかと頭の隅で考えながら、ジャージを脱ぐ。黙々とズボンも脱いで、ワイシャツを羽織る。もう一人でこうして着替えるのも馴れたものだ。愚痴さえももう、漏れてこない。前は二人で朝練の反省点だったり、昼練はどうするかだったり、話し合いながら着替えていたというのに。あいつのいない寂しさにも、馴れてしまったというのか。
すると、ギィと重たい音を立てて、扉が開いた。突然目の前に溢れ返った光に目が眩んで、それを背負った人影が黒く浮かび上がるように見える。扉が閉まり、徐々に部室に入ってきたその人物の詳細が見えてきた。青みがかった黒髪にスポーツをやっているにしては色の白い肌、薄茶色の目。今しがた思い浮かべていた、あいつの姿がそこにはあった。予想もしていなかった登場に、俺は少しぎょっとする。向こうも驚いたようで少し目を見張って、俺を見返してきた。
「お疲れ」
「……お疲れ」
たどたどしく呟いた俺の言葉に、二三拍遅れて相手が同じ言葉を返す。そして、おもむろに入り口近くのロッカーの前に立ち、『芹沢』と書かれたネームプレートの貼られたそのロッカーをほとんど音も立てずに開いた。そいつの動作は、ひとつひとつがあまりにも慎重さや静かさに満ちていて、まるで自分の気配を消したがっているように見えた。じっと見ているのも居心地が悪くて、俺は再び自分のロッカーに向き直る。制服のズボンを穿きながら、できるだけ何気ないふうに呟いた。
「来てたんだな」
「……え」
「最近、朝練来てなかったからさ」
相手は何も言わなかった。気まずい空気だけが、こびりついた汗の臭いと混じってうざったいほどに充満する。ちらりと相手を見やると、背中を向けたままの姿から控えめな声が聞こえた。
「全部忘れちゃって初心者同然だから、他の人に迷惑かなと、思っ、て……一人で練習してた」
ふーんと素っ気ない相槌を打ってから、またちらりとそいつを見やる。タオルで汗を拭くだけで一向に着替えようとする気配がない。たまにかち合う視線は、むしろこっちを気にしている様子でもある。やっぱり、違うんだよな。あのさ、なんとなしにぽつりと呟く。
「お前、弟の方だろ?」
一筋の朝の光に射された背中が、ぴくりと動く。
「何のこと?」
「とぼけても無駄だぞ。象とはクラブチームの時から一緒だし、覚えてないだろうけど、お前がいた頃も俺いたから」
汗にまみれた部室の熱気が冷めるような沈黙が、重く流れ込む。俺が体ごと相手に向いているのに対して、そいつは隠れるように背中を丸めて、ロッカーと向き合ってじっとしていた。答えを促す言葉を発する前に、その肩が上がって、はぁ、と諦めたような、どこか気だるいため息がその沈黙に終止符を打つ。ようやくそいつが振り向いた瞬間、薄茶色の瞳が空の色を映すように青く光った。ああ、やっぱりこいつは。
芹沢象が学校に戻ってきたのは、一ヶ月前のことだった。
「記憶喪失?」
俺たちが聞き返すと、あいつはおずおずと頷いた。
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