喫茶海猫

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喫茶海猫

69135327-3f42-4eec-8243-36e1f34f8a2f 挿絵イラスト:Claret様(@claretsdx)https://skima.jp/profile?id=51183   櫻城の都、有明にはいくつかの喫茶店があって、有明の人々はお年寄りから学生まで喫茶店で一服することを楽しみにしている。大体どの人にもお気に入りの店があり、それぞれの店の個性を好んだおなじみの顔ぶれが集まるのが常だ。この喫茶海猫は数ある喫茶店の中でもことさらに店主のこだわりが強い店として有名で、西海の喫茶の雰囲気を再現することに余念がない。その思い入れが本物であることを証するように、この店には他の店よりも神国海軍属の客が多かった。文州をはじめ世界中に赴き現地の文化に触れてきた彼らに愛されていることが更に評判を呼び、喫茶海猫でパンケーキを前にティーカップを傾けることは大人びた楽しみとして学生たちの憧れになっていた。  わたしも女学校の先輩に誘われなければこの店を訪れる勇気は湧かなかったかもしれない。授業が終わり、いつものように帰路につこうとしたとき、ひとつ上の学年に在籍する和光しほり先輩がほんの思いつきのように口にした言葉がすべての発端だった。  「いい天気だし、海猫に寄り道するのはどうかしら」  名門家のご令嬢でありながらとても気さくな先輩は、時折こうしたことを言い出してわたしに驚きと知らないときめきを教えてくれる。わたしはしほり先輩といる時間が長くなるのならあばら家であろうと構わないけれど、誘われたのがあの喫茶海猫とあって、人間は夢見たことが現実になると何の反応もできないのだと知ることになった。  実際にこうして先輩と机を挟んで向かい合っていてもどこか現実味がない。白い壁、一本脚の重厚な丸机、甘くほろ苦い香りが空間を満たし、色硝子で薔薇を象った飾り窓からは色とりどりの光がこぼれてしほり先輩の姿を聖女画のように神々しく見せた。西海の風情をふりまく内装や調度に囲まれたこの場所にしほり先輩と二人で座っている。状況のすべてがあまりに出来すぎていて現実のこととは思えないのだ。  優雅に紅茶のカップを傾けている先輩とまだこの店の雰囲気に圧倒されている私の間には同じパンケーキがふた皿並んでいる。綿が詰まっているかのようにふかふかとした狐色のパンケーキが積み重なり、その頂から金色の蜜とゆるやかに溶けゆくバターが大理石のような模様を描きながら流れ落ちていく。 「しほり先輩はこのお店によくいらっしゃるんですか?」 聞いてみると先輩は身を乗り出して声をひそめた。 「実は私も二度目なの」 片目を閉じていたずらっぽく笑う仕草から溢れる愛嬌になすすべもなく、きっとわたしはひどく間抜けな顔で先輩に見惚れているのだろう。この時間が永遠に続けばいいのにとあまりに陳腐な願いが心を満たした。  「すいません、箸をください」  恍惚とするわたしの思考を隣の席からの声が遮った。お箸。この小さな西海と呼ばれる異国情緒に満ちた喫茶海猫で、お箸。思わず声の主へ目を向けると一人の殿方が給仕さんに向かって手を挙げていた。服装から察するに、有明にある州立大学の学生だ。金と臙脂色の飾りが鮮やかな詰襟は海軍学校の白い制服と並んで女生徒の人気の的だ。 「ナイフとフォークを使わないのかい?」 学生の向かいに座った海軍の方が不思議そうに問いかける。件の白い制服は着ていなかったけれど、めったに見ない赤い革の上着を着ていたのでその方が誰であるかはすぐにわかった。安達真純海曹。本物の紳士と呼ばれる海軍軍人の中でも特に品行方正な方として有名だ。頻繁に有明に姿を見せては街の人たちの相談に乗っている安達海曹のことを人々はその変わった出で立ちと共に記憶している。 「切るのと口に運ぶのをわざわざ別の道具でするなんて効率的じゃない。箸なら一膳あれば事足りる」 手にした赤い箸で早速パンケーキを切り分け始めた学生さんはさも当然というように答えた。正直なところ効率云々の話よりこの店にもお箸があったことの方が興味深いけれど、安達海曹は一理あるとカップを口に運びながら頷いている。  海曹と学生に一体どんな接点があるのだろうか。年頃が同じだから友達だろうか。それとも海軍が学生に何か用事を頼むこともあるのだろうか。つい周囲のものを観察したくなる悪い癖が出て二人を眺めてしまう。そんなわたしの横をそのとき誰かが風をまといながら通り過ぎていった。  「ようお前ら。油売ってんのか?」  その殿方は言い終わる頃にはもう空いた席に腰を掛けていた。鮮やかに目を引く柑子色のシャツに黒っぽい羽織を重ねた姿は安達海曹と同じくらい変わっている。そして、やはりその特徴的な格好のために彼が誰であるかは自ずとわかった。 「安達さん、こんにちは」 「僕と犾守君はこれから仕事。キヨこそ何をしてるの?」 安達海曹の兄、清純海曹は先に席についていた二人と待ち合わせをしていたわけではないようだけど当たり前のように品書きを手に取って自らも注文をしている。弟の真純海曹とは違う荒々しさと奔放さがあり人懐っこい性格の彼もまた、有明の人々からよく知られている。 「今日は昼非番。海佐を誘ったんだけど断られてさ」 大げさに残念がっている兄君へ真純海曹は感情の読めない静かな視線を向けている。 「いつものことじゃない」 「最近思い付いた新しい術式兵器の構想を聞いてもらいたかったのに」 「重里海佐は術式の専門家であって兵器にはそんなに興味がないんじゃないかなあ」  この優美な喫茶店の雰囲気の中でどうしてわざわざ兵器の話をしようと思ったのか。誘われた方も困るのでは。思わず口から出そうになった言葉を呑み込もうとしてわたしはカップの中で冷め始めていた紅茶を飲み干した。その様子を見てしほり先輩が驚いたように目を丸くする。  せっかく先輩と海猫にやって来ているのだから周囲が多少騒がしくても先輩のようにゆったりと構えてこの時を楽しまなくては。自分に言い聞かせるものの隣の会話は続いていく。 「どんな構想なんですか?」 黙々とパンケーキに取り掛かっていた学生さんが、興が乗ったのか手を止める。もしかすると彼の専攻はその領域なのかもしれない。 「まず浮きを利用して縄状にした術式を張るだろ。そこを敵艦が横切ったのをきっかけにして術式が作動して線上の艦を破壊するんだ。機雷の攻撃範囲を点から線にすると言えば想像しやすいと思う。守備範囲を広げながら、設置数も効率化できる」 わたしには想像しにくいことこの上ないけれどテーブルの上を海に見立てて長い指で線を引いたり架空の兵器を指したりしながら清純海曹はいきいきと語る。聞いている二人も真剣な面持ちだ。ただ、そばを通りがかった給仕は言葉の端々からきな臭い雰囲気を感じ取って三人に不審そうな視線を投げかけている。気持ちは大いに分かる。 「キヨにしては結構良い案に聞こえるから困るなあ。でも、設置数を効率化したとしてどんな効果があるかな。お金は節約できるだろうけど、むやみに設置するとこっちの身動きも取れなくなるし」 「術式が敵艦だけに反応するようにできればこっちは自由に動き回れる」 「僚艦との区別はどうつけるの?」 「そこを相談したかったんだよ。民間船とは術式を張る高さで区別がつくと思ったんだけど。術式の構成で何とかならないものかな」 僕は術式には詳しくないから、と首を傾げた安達家の養子の顔は清純と似ていないけれど、悩む仕草はそっくりでどこか微笑ましい。 「光の性質を利用した、似たような装置が古い遺跡で見つかったという話は聞いたことがあります。特定の場所に光が当たると作動する装置で、普段は鏡で光の当たり方を制御したそうで」 目を閉じてパンケーキの最後のひと切れを味わいながら、犾守君と呼ばれていた学生さんが応じる。 「術式に光のような性質を持たせられるならいくつか方法は考えられます」 「マジか! さすがだな弥栄。何か食うか?」 箸でパンケーキを食べる以外は無害かと思われていた学生さんがここにきて積極的に、しかもかなり具体的に話に参加してきてしまった。このままでは喫茶海猫で先輩とお茶をするお洒落で心ときめくひとときが、新型兵器に敵艦もろとも爆破粉砕されてしまう。心配するわたしの気持ちを感じ取ったわけではもちろんないのだろうけれど、メニューに伸ばされた清純海曹の手を弟君が制する。 「キヨ、もう仕事の時間だからまた今度にして。犾守君、行こうか」 うなずいた犾守さんは箸を置いて代わりに学帽を手に取る。すると、清純海曹も皿に残った焼き菓子を一口に片付けて席を立った。 「俺も手伝ってやるよ。終わったら続きな。他に人型最終決戦兵器の構想もあるんだ」 もういい、もういいの。というか急速に話が荒唐無稽になったけど大丈夫かしら。話の先行きが気がかりで私は思わず顔を振り向けてしまった。その勢いにしほり先輩がはっとしたことに気付いたときにはもう遅かった。私の視線の先を振り返り、ゆっくりこちらへ向き直った先輩の顔は慈しみに満ちていた。 「春子さんもやっぱり素敵な殿方は気になるのね」 「ち、違うんです!」 よりによってしほり先輩にそんな勘違いをしてほしくない一心で慌てて否定するが、隣の席の話を盗み聞きしていたとも言えない。思わず大きな声を出してしまったので今度はわたしの方が真純海曹に振り返られたことが気配でわかる。 「冷やかすつもりじゃないのよ。どなたが一番気になるの?」 「そうじゃなくて……」 言葉とは裏腹に先輩は目に見えてうきうきとしはじめた。どう取り繕おうかと考えているうちに事の元凶たちは何も知らずにわたしたちの横を通り過ぎて行ってしまう。  そのとき何か硬いものか落ちる音がしてその場の空気が止まったような気がした。見れば、緑色の飾りと根付がついた煙草入れがしほり先輩の足元に転がっている。さっと立ち上がり膝を曲げてそれを拾い上げた先輩は惚れ惚れするほど優美な所作で真純海曹に差し出す。 「どうぞ」 「失礼しました。どうもありがとうございます」 優しい気質がにじみ出るような笑顔で受け取った煙草入れを顔の横に掲げるようにして礼を言う。先輩に負けず劣らず上品なその姿をぽかんと見つめていたわたしの脳裏に何かが引っ掛ける。  煙草入れについている根付が違う。  鳩の土鈴を小さくしたような根付がついていることは床に落ちている煙草入れを一見したときと変わらない。しかし、先ほど見たその根付にはひとすじ目立つ傷が付いていたはずなのだ。なぜなのか、答えを求めて泳ぐ視線が先輩を捉えた。  しほり先輩が、ゆったりとした手つきで銀色のものを鞄に滑り込ませる。呼吸のように自然にさりげなく。それは今しがた見ていた煙草入れにとてもよく似ていた。振り返ると三人の殿方たちはまだ何かしきりに話しながらちょうど店を出ていくところだった。  何か言葉にならない疑問を抱えたままおもむろに捻っていた上体を元に戻して、どきりとする。  先輩が目元に笑みをたたえてこちらを見ていた。いつものように優雅で、穏やかで、聡明さをにじませる美しい笑み。自分は何も知らないとでも言うような、それでいてわたしの疑問も動揺もすべて見通しているような、そんな笑顔だ。  「また来ましょうね」  優しい声音が通り抜けていくと胸に花が咲くような心地がする。蔓を伸ばし、生い茂り、咲き乱れるその感情はわたしの中で渦巻いてまとまらない思考を瞬く間に覆い隠していく。美しく聡明で、そしてどこか謎めいたこの先輩が私の憧れなのだ。もはや何を疑問に思っていたのかも分からなくなった頭に、パンケーキのシロップは痺れるように甘く沁み込んでいった。                                 了
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