耳殻

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耳殻

 暦が晩冬を示しても、欧州屈指の連峰がもたらす冷気は緩む気配を見せない。幾重にも無機質に立ち並ぶ相似の建物群を抜けて、大学寮敷地の北端へ。運営事務所に隣接する煉瓦張りの平屋に身体を滑り込ませる。  凍てついた外套のフードを後ろに払って、足早にレストランへ。週末には簡易なパーティ会場として大学生や近隣の若者で溢れかえる夜もあるが、今夜は平日。奥行きある空間には、ひっそりと食事を摂る学生の姿が、片手で数えられる程。日本育ちの私にとっては遠過ぎる天井も相まって、決して居心地が良いとは言えない。  手帳に挟んだミールクーポンと引き替えに、恐ろしく無愛想な給仕係が差し出すトレイを受け取る。パン、スープ、サラダ、得体の知れない白身魚のソテー。大学間の交換教授制度に則って差し出された我が身に相応しい、いつものささやかな一人だけの晩餐。  空いている席に着き、細切れ野菜の浮かぶスープに薄っぺらいスプーンを差し入れたところでふと視線が引き寄せられた。私が着いた横長テーブルの反対側、対角線上に座る黒髪の女性。既に食事を終えたその人物はソファ席に身を委ねて、手元のペーパーバックに視線を落としている。  ベージュの柔らかな風合いのニット、濃色のタイトジーンズ。飾り気ない装いに、耳殻から垂れるピアスの銀鎖だけが鈍色に澄んでいる。細い顎をやや天井に向け、半ば落とした目蓋の隙間からページをなぞる眼差し。奇妙に物憂げなその横顔に気を取られたせいだろうか。手許のスープを飲み下した瞬間、喉に違和感を覚えた私は為す術もなく咽せてしまった。  慌てて口元を抑えるが二度、三度と湿った咳が続き、指間から滴がナプキンに落ちる。水を探す私の眼前にグラスが差し出された。受け取って赤い液体を喉に流し込む。葡萄酒の思わぬ渋味に顔をしかめつつ、喉に刺さった微細な香辛料が洗い流されていくのを感じる。 「……ダンケ(ありがとう)」  辛うじてそれだけを告げて視線を上げる。すぐ側に立って私を無表情に見下ろすのは、先刻の女性だった。 「あ、しまった」  ややハスキーなドイツ語の呟きが、独り言みたいにポツリと落ちてくる。 「なに」 「私が口を付けたワインなの、それ」 「あぁ……」  それ以来、レストランで居合わせるとどちらからともなく同じテーブルに着いて、とりとめない言葉を交わす仲になった。ただ、当時はそれぞれに相手がいた。彼女が他学部の客員教授で、日本人の血が半分流れていると知るのも後日のこと。 「ねぇ。もう一度聞かせてよ」  知り合って半年ほど経った頃。いつもの大学寮、いつものレストラン。開け放たれた天窓から夜風が静かな螺旋となって舞い降りていた。二人の指定席になりつつある片隅のテーブルで、私が(そらんじ)た詩の一編を再びとせがむ彼女。  耳の後ろに掛けた黒髪を片手で抑え、テーブル越しに身を寄せてくる。オーバーサイズの白シャツの下で、不可視の半身がしなやかだった。また、その理不尽に艶やかな横顔、落とされた目蓋に隠れた淡栗色の瞳が意識される。頬骨と顎線が描く調和の曲線から、伸びやかに逸脱する鼻梁の直線。その下でいつも少し拗ねたみたいな厚い唇が、今夜は俄な期待に沈黙している。  だが、物憂げな停滞を彼女の相貌に付すそれら全ての要素を差し置いて、私の意識はそのやや後方、いままさに眼前へ差し出されて初夏の夜に浮かび上がる唯一つに囚われていた。  耳殻。軟骨が誇らしげに描き出す隆起と沈没の精妙な造形。耳孔の手前で生まれ落ちた細胞群が後頭部へ押し流される途上の歪な扇。  寄せる波の気紛れになぶらるるまま自然そのものをその身に宿した陰影に、水底で乳白色の柔らかさに揺れる太古の貝殻を思う。あるいは、黒い耳孔から溢れ出た幾重の(ひだ)がやがてその縁で無垢の摂理さながら大きく弧を描いて柔肉となって垂れる有り様は、耳朶として滴る私の未練だった。  レストランの吹き抜け天井から注ぐ照明が産毛に微光を宿し、外耳の殻縁を飾る。外気に晒されたままの彼女のその部位。それはまるで秘すべき箇所と知らず露呈する幼子の強かな無心。一方、その冷たさと対極を成す紅潮が彼女の心中を無遠慮に透かし、私の希みを一つ所に映し取っている。  かねてこの耽溺への衝動は抑えがたく、胸中に圧搾したざわめきが舌に乗って零れ出ないよう歯を食いしばる。顎の両端で膨張する筋肉。そこから最小限の唇の動きで彼女に伝える言葉は、自分でも驚くくらいの湿度で無愛想だった。 「あげるよ」  視線を引き剥がす。胸ポケットにいつも潜ませている薄い詩集を取り出して、その縁で彼女の肘にそっと触れた。折り跡がついて草臥れた表紙の感触に瞳が細められて、剣呑に見つめ返してくる。その奥に揺れる驚きは彼女が親しい相手だけに見せる、無垢な稚拙だった。 「どうして。いらないけど」 「自分で読めばいいだろ」 「わかってない。君の声で聞きたいの」  日本に帰国してから数年経った頃、彼女から唐突に連絡があった。出張で私の住む街の近くを通るから、会えないかと。  当時寝泊まりしていた大学院の研究室から、待ち合わせ場所に向かう。十五分遅れで到着すると、スーツ姿の彼女は挨拶もそこそこに私の頭に手を伸ばす。破顔した口元に糸切り歯がやや大きい。それは記憶のまま不釣合いな愛らしさで、彼女は変わらず彼女なのだと思った。 「なにこの寝癖。久し振りに会うのに。ヒドい」 「無造作ヘア。寝癖じゃないって」  その夜の彼女は少し調子外れなくらいに上機嫌で、再会した瞬間から二人には予感があった。けれど、やがて恋人を経て妻となる彼女との時間について、話すべきことはほとんど残っていない。  呆気なく終わりを告げた日々の切片。それらは彼女が事切れた夜そのままの濡れた鋭利さで、記憶の一部に成り果てることをいまも拒み続けている。
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