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チュッチュッチュッ――。
目の前にいる祖母が、口を動かして発している音だ。
これがいつもたまらなく不快で、美羽は顔をしかめる。
入れ歯が合わないとか老化現象だとか、色々理由はあるらしい。しかし、理解はしても受け入れるのは難しい。
老人ホームの喫茶室。祖母は、車椅子に腰かけて、口を動かしながら濁った目で窓の外をぼうっと見ている。
美羽が祖母に会うのは2年振りだ。
遠方にいて会えなかったわけではない。ただ、億劫だった。昔から小言が多く、成人してからも、仕事はどうだのいい人はいるのかだの言われるのがうるさかったし、最近は認知症も進んでるという話だったから、余計に足が遠のいた。実際、目の前の祖母の状態はだいぶ悪いように見えた。
「おばあちゃん、美羽だよ。聞こえてる?」
祖母は視線すらこちらに向けようとしない。美羽はどうしていいか分からず、帰りたい気持ちで一杯になった。しかし、面会受付をしてからまだたったの10分。こんな短時間で席を立てば、薄情な孫だと思われそうで躊躇してしまう。
仕方なく、目の前の祖母を観察して時間を潰すことにした。
肉が落ちてキュウリのように長細くなった顔。そのせいで余ってしまった皮が、ドレープのようなたるみを作っている。
髪の毛は思いきり短く刈られている。恐らく、洗髪しやすいようにだろう。しかし、そのせいでまるで女性には見えない。服装も、動きやすそうなあずき色の上下のスエット。
美羽は何とも言えぬ切ない気持ちになった。呆ける前の祖母は――そんな性格が嫌いだったのだが――気が強くて何でも自分で物事を決めたい人だった。しかし、今はどうだ。着るものも髪型も全て介護人の都合で決められ、個人の意思ははく奪され、性別すら分からなくされている。美羽はゾッとした。
しかし、まぁ祖母の場合はまだ幸せかもしれない――。
これだけ認知症が進んでしまえば、自分がどういう扱いを受けているのかも分からないだろう。意識がしっかりしていれば、きっとこんな屈辱には耐えられなかったはずだ。
そんなことを考えていると、祖母の手元から、ひらりと何かが落ちた。
拾うと、それは1枚の写真だった。
モノクロの写真には、ブラウスとスカートを身にまとった美羽よりも若そうな女性が写っている。長い髪をハーフアップにし、椅子に腰かけてにっこりと満面の笑みを浮かべている姿は、美人と言えるほどではないが、笑顔が魅力的だ。
「おばあちゃん、これ何の写真?」
祖母は相変わらず無反応だ。
「田原さん、おばあちゃん入浴の時間なんだけど、ちょっとお借りしてもいいかしら?」
背後から中年の職員に話しかけられる。
「あぁ、そうだったんですね。大丈夫です。そしたらもう帰りますから」
「あら、ごめんなさいね。また来てちょうだい。おばあちゃん、嬉しそうだわ」
「えぇ? ずっと無表情で外ばかり見てますけど……」
「ふふ、目の輝きが全然違うわよぉ。」
そう言うと職員は車椅子を押して去っていった。
あのどんよりとした目元に、輝きなんて微塵も感じなかったけど――そう呟いてから、美羽は写真を返しそびれたことに気付いた。
「今度また返しに来るか……」
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