美代子

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「それで、あなたは誰?」  10分ほど大通りを歩いたところにある喫茶店に入り、2人で向かい合う。  美羽は紅茶をすすり、美代子はクリームソーダをおいしそうにちびりちびりと舐めている。年頃の若い女性特有の無邪気さが、美羽には不思議に映る。 「私は、たは……えっと、みうです。美しい羽でみう。えっと、私以前にあなたのこと見かけたことがあって、それで仲良くなりたいなぁって」  田原、と言いかけたが、ややこしいことになりそうでやめた。 「え? 私を? どこで? うちのお弁当屋さんに来てくれたってこと?」 「そう、そんなところです。それで、お店の人にお名前を聞いていたんです」    令和の時代だったら、個人情報云々で問題になりそうな理由だったろうが、美代子はすんなりと納得したようだった。 「ふ~ん。まぁ、友達くらいならいいけど」  初めて笑顔を覗かせる。屈託のない、可愛らしい笑顔だった。祖母のこんな顔を、見たことがあっただろうか? 「美羽ちゃん、あなた上京したばっかりって言ってたわよね? 仕事でも探してるの?」 「あ、そう。そんなところです」 「そしたら、私の職場、紹介してあげるわよ。私がもうすぐやめちゃうから、人手が足りないの」 「えっ?辞めちゃうんですか?」 「美羽ちゃん、友達になるんだったら敬語はやめなさいよね。……さっきも言った通り、私結婚するから。お仕事は辞めなくちゃでしょ?」  結婚――。美代子は特段うっとりするでもなく、淡々とそう言った。 「あぁ、結婚か。美代子さ……ちゃんていくつなの?」 「21よ。美羽ちゃんは?」  21歳の祖母とこうして向かい合っていることに、美羽は何とも言えない感動を味わっていた。当たり前だが、あの老いた祖母にも、こうして若く瑞々しい時代があったのだ。 「私も……そのくらい。美代子ちゃん、結婚するの楽しみ?」 「どうかな。お見合い結婚だし、そんなによく知らない人だから、緊張はしてる。でも、結婚できてよかったと思ってるわ。貧乏な私も人並みに幸せになれそうだから」 「そっか。よかったね」 「本当は、好きなお仕事もしてみたかったけどね。私、あそこの百貨店で働くのが夢だったのよ」  美代子は、大通りの道路を挟んで向かい側の大きな建物を指さす。 「素敵な制服を着て、お化粧をして店頭に立つのが夢だったの。美羽ちゃんの今着てるまたいなワンピースよ。まぁ、美人でもなく貧乏な家の私には、到底叶わない夢だったけどね」  そう言って美羽のブルーのワンピースをまぶしそうに見る。  美代子は、白いブラウスを長いチェックのスカートの中にインしている。清潔感ある格好だが、喫茶店内の若い女性とよくよく比べてみると、いささか時代遅れというか、野暮ったい出で立ちに見えた。もしかしたら、誰かから譲り受けたものを自分のサイズに合うよう手直しをして着ているのかもしれない。化粧けもなく、百貨店で働くには華やかさが足りなかった。 「そっか。何だかキラキラしたところだもんね」 「うん。百貨店を眺められるお弁当屋さんで働くのが私の限界だったけど、近くで見ているだけで幸せだったわ。これからは結婚生活を楽しまなくちゃね! 誰かの奥さんになるって、やっぱり幸せなことなのかしら?」  その質問に、美羽は何も答えられかった。  祖母が祖父に長い間苦しめられてきたことは、少しだけ知っていた。離婚こそしなかったものの、祖父は美羽が生まれる前に蒸発してそれっきりだ。 「田原さんて、とってもかっこいい人なのよ。派手な感じだけど、どうやらお仕事も成功してるらしいわ」  金にはとても苦労したと、母から聞いたことがある。 「子供は3、4人は欲しいわ。兄弟たくさんいて、私も楽しかったし」  せめてその願いだけは叶っていることにホッとした。祖母は、美羽の母を含めて4人の子供に恵まれている。  期待に胸を膨らませる様子の美代子を見つめ、美羽はいたたまれない気持ちになった。  厳しい祖母を嫌ってきたが、彼女が歩んできたであろう人生を少しでも慮れば、それが当然であることが理解できたはずだ。しかし美羽は、それが祖母の生来の性格なのだと決めつけて距離を置いた。それが間違っていたことは、目の前の美代子を見ればすぐに分かる。 「それでね、私、これから写真を撮ってもらいに行こうと思ってるの」 「写真?」  祖母の手に握られていたあの写真のことを思い出した。 「うん、これから写真館に行って、独身最後の私を撮ってもらおうと思って。お化粧とか貸衣装とかつけると高くなっちゃうから、こんな格好だけど。これでも私の一張羅だから」  美代子は恥ずかしそうに笑う。  美羽は、そのあどけなさの残る顔を見て、ハッと思い出したようにワンピースのポケットを探る。  あった。メンソレータムと口紅。  横着者の美羽は、口紅をポーチにしまうのが面倒で、ポケットに突っ込んだまま持ち歩くことが多かった。 「美代子ちゃん、じゃあ、お化粧しようよ」  美羽は口紅を美代子に見せて笑う。  美代子の表情がぱっと明るくなった。 「いいの? 嬉しい!化粧品なんて高くて私には買えないから」  目を輝かせる美代子の顎に手をかけ、リップで水分を与えてから唇に色を乗せる。肌なじみの良い薄いピンク色だが、色白の美代子に塗ってやると、花が咲いたように美しく発色した。 「……美代子ちゃん、あのね。私のおばあちゃんて、すごく厳しい人だったの」  美羽は丁寧に口紅を塗りながら言う。  美代子は口を動かすことができないので、目線だけ美羽に向けている。 「だから。あんまり好きじゃなかったんだ。でも、今日、一つおばあちゃんに感謝しなきゃいけないことを思い出したの」  直塗りしているので、唇の端へは指を使ってのばす。たった口紅一本で、驚くほど美代子が垢抜けて見える。 「できた。これで写真も素敵に撮れるよ」 「わぁ、ありがとう!」  美代子は、窓ガラスに顔を映して出来栄えを確認しようと躍起になっている。こんなに喜んでもらえることが嬉しかった。 「それで? 美羽ちゃんのおばあさんに何を感謝するの?」 「え? あぁ、いいの。ただ、感謝をしたいって言いたかっただけ。今日、美代子ちゃんとこうやって話をしなければきっと一生気付かなかった。……ありがとう」 「私に言ってどうするのよ。それはおばあさんに直接言いなさいよ」  美代子は呆れたように言った。  事情の分からない美代子には、美羽の言動は意味不明だっただろう。そう思うと、つい笑みがこぼれてしまった。 「そうだね。おばあちゃんに直接言わなくちゃね」  喫茶店を出て、写真館に向かう美代子を見送る。  もしまだ目が覚めないなら、美代子の言っていた百貨店でも覗いてみようと思っていたのだが――周りの景色が徐々にぼやけて白くなる。 ここが夢の終わりだと分かった美羽は、その場で目を閉じた。          
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