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次の週末、再び老人ホームを訪れると、そこには既に先客がいた。
「あら、美羽」
「お母さん!来てたんだ」
美羽の母が、洗濯物などを袋に入れているところだった。祖母は、今日はベッドに横になって天井をぼうっと見つめている。相変わらず口をもごもごさせながら。
「先週も来てたって聞いたわよ。今日もおばあちゃんの様子を見にきてくれたの?」
「うん。写真を持って帰っちゃったから、返しに来たの」
バッグから白黒の写真を出して見せると、母が懐かしそうに破顔する。
「あらぁ。まだこんな写真残ってたのね。何歳の時の写真かしら?随分若いわよね」
「21歳」
「え? おばあちゃんがそう言ってたの?」
「ん? まぁ、そのくらいだろうなって」
母と美羽は、丸椅子を引きずって祖母のベッド際に腰掛ける。今日も干からびたきゅうりのように萎れた祖母。その姿からは、美代子の面影はまるで感じ取れない。一抹の寂しさを覚える。
「おばあちゃんは、随分苦労したの?」
そう尋ねると、母はどうしたのと言うように小首をかしげ、やがて小さく笑った。
「そうね。おばあちゃんは早くに結婚したんだけど、おじいちゃんはもうその頃からダメな人だったからね」
「お母さんから見て、おばあちゃんてどんな人だった?」
「そうねぇ。ほとんど母子家庭状態だったから、お母さんが物心ついた時には、ずっと働いてたわ。朝から晩まで、休みもせずにね。子供四人育てるのに必死だったと思う。だから、いつもピリピリして怖かったよ。……美羽も、おばあちゃんのことあんまり好きじゃなかったんでしょ?」
母は気遣わしげに美羽を見る。
「え? うーん、そうだね。厳しかったよね。私が子供の頃から。勉強サボると怒られたし、生活態度にも口うるさかったし。同級生の優しいおばあちゃんが羨ましかったな」
「許してやって。おばあちゃんは、何もあんたが憎くて厳しくしてたわけじゃないの。自分が長い間苦労したから、自分みたいにならないように、女一人でも生きていけるように、しっかりと教育したかったんだと思うのよ」
母は、祖母のカサカサした手の甲を撫でながらそう言った。
美羽はうなづいた。
そう、今なら分かる。祖母がどういう気持ちでここまでの人生を駆け抜けてきたか。本当はどのように生きていきたかったか。
祖母があの写真を握りしめていたのは、未来への希望に満ち溢れていたあの頃に戻りたかったからなのかもしれない。
「おばあちゃんのこと、確かに苦手だと思ってたし、ここ数年は避けてた。でも、私おばあちゃんに一つ感謝していることがあるんだよ」
美羽も、母の手の上から祖母の手を握る。
「私が出版社で働く夢を叶えることができたのは、小さい頃におばあちゃんがたくさん本を読ませてくれたおかげ。本が好きになったのは、確実にそれが原点だった。今の今まで思い出せなかったよ」
祖母は、美代子は、美羽が彼女の代わりに夢を叶えたことで、少しは青春期の未練を手放すことができただろうか? それとも、さすがに都合の良すぎる解釈だろうか。
「おばあちゃん、きっと喜んでるわよ。自分のやってきたことが間違いじゃなかったんだって、そう思っているわ」
二人で祖母の顔を見る。
認知症だからこちらのことなんて何も分かっていないだろう、と思っていた自分を恥じる。
祖母の手に握られた写真は、彼女の強い意志だ。
美羽は、バッグの中のポーチからメンソレータムと口紅、そしてリップブラシを取り出した。
「今日はもうちょっとキレイに塗ってあげられるよ」
そう言って祖母の頭側に移動し、あの喫茶店の時のように唇に水分を与えてから、筆で丁寧にピンクの口紅を塗る。
「あら、口紅なんか塗って。落とすのが大変だから……」
「ダメだよ。おばあちゃん、おしゃれが好きだったんじゃない? 髪もこんなに切られちゃって、服もこんなだし。きっとそういうの分かってるよ」
母が、ハッとしたようにこちらを見るのが気配で分かった。
「できた。うん、色白だから素敵」
薄くなった唇に色を足せば、21歳の美代子が一瞬戻ってきたようにも見えた。
美羽は手鏡を持って上から祖母に出来栄えを見せる。これが、美羽にできる祖母への敬意の示し方だ。
すると、それまで何の感情も浮かべず天井を見つめていた祖母の瞳に、光が宿ったような気がした。
「お母さん……?」
母も気付いたようだ。腰を浮かせて祖母を覗き込む。
祖母は、もごもごと動かしていた口元をきゅっと結んだ。
そうして、鏡に映った自身の顔をじっと見ると、やがて満足そうに、ゆっくりと唇を笑みの形にするのだった。
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