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《ちーちゃん! 目を覚まして、ちーちゃん!!》
必死に呼びかけるその声は、涙声で嗄れていた。
「こ、この声は…?」
「サチヨだ」
「ちーちゃん、とは?」
「俺のことだよ。俺の名前、千尋だから」
「そういえば幼なじみだと言っていましたね。
……驚きです。現世の声がこの場所にまで届くなんて。
それほど彼女のあなたを思う気持ちが強いということでしょうね。
しかし、一つ疑問があるのですが……」
「なんだ?」
「あなたを呼ぶ声と共に、まるで何かを殴っているかのような凄まじい打撃音がするのはなぜでしょう?」
「ああ。それ多分、サチヨが俺に心臓マッサージしてる音だと思う」
「明らかに心臓マッサージの音じゃない!骨粉砕してそうなんですが!」
「ほら、昔のブラウン管のテレビって叩いたら直るだろ? それだよ」
「たぶん違う、テレビの接触不良の改善方法とは訳が違う!
しかもこれは叩くってレベルじゃない、テレビだったら確実に画面割れてる!」
「……あれ?」
「どうされました?」
「いや、なんかよくわからないけど、少し引っ張られてるかんじがする」
「え? ま、まさか…」
すぐさま本を確認した案内人さんが、顔を上げた。
「こんなことが! 彼女の心臓マッサージのおかげで、あなたの心臓が動き始めようとしています!
もしかすると、生への執着があれば生き返れるかもしれません!」
「生への執着か。………。
なんか、さっきのサチヨの声を聞いたら、生きられるなら生きたほうがいいかな、って思えてきた」
「うんうん。やはり人間はそうでないと!
安斎さんは異例で亡くなった方ですから、このまま心臓が動き出し、霊によって吸い取られた寿命を戻すことができれば、私があなたの魂を現世へと返還します。
といっても、霊たちをなんとかしないことには難しいですが」
「返還って、そんなことしていいのか? 理由はどうあれ、俺は死んだわけだし」
「私は安斎さんを死に至らしめた霊たちが許せないんですよ。
生前のしがらみによって現世から離れることができなくなった霊が人間に干渉し、
あまつさえその命を奪うなど、あってはならないことです。
そんな死後の世界の者が人間に強制的に押し付けた死因を受理することなどできません。黄泉の案内人の名が泣きます!」
案内人さんが腕を組んだり、かと思うと手を突き出したり、身振り手振りを用いて言い放った。最後にふん、と鼻を鳴らした案内人さんに、俺は言った。
「案内人さんて真面目だな」
案内人さんと空中の本ががくんと脱力する。なんとか体勢を整えて、ふんわりと広がったスカートの裾をはたいた案内人さんが、少し頬を膨らませた。
「私今、ものすごく良いこと言ったと思ったんですけど。
……え! あれ!? ちょ、ちょっと待ってください!」
また慌てだす案内人さん。忙しい人だな、と思った。
今度はみずから本の束をばさばさとめくっていく。紙が破れないか心配になった。
そうこうしているうちに目当ての項目を見つけたようで、案内人さんの手の動きが止まった。案内人さんは信じられないといった顔で、開かれたページから目を離さずに言った。
「こ、これは……」
「どうしたんだ?」
空中の本が俺のほうを向いた。俺が見てもよくわからないが、ある数字が目まぐるしく変化を示していることに気づいた。案内人さんがずいと身を乗り出す。
「寿命が……安斎さんの寿命が、急速に戻っていっています!いったいどうして……」
俺にはすぐにその理由がぴんときた。
「サチヨだ」
「さっきからサチヨすごすぎませんか!?」
「おそらくサチヨが霊たちに戦いを挑み始めたんだ」
「急なバトル展開!?」
「サチヨはたしかに除霊師ではないが、除霊師の追っかけでオタク歴は長いからな。格闘技を生かして霊と分かり合えないかといつも考えをめぐらせていた」
「唐突の格闘技は何!?」
「サチヨは格闘技で全国制覇したことがあるくらい肉弾戦が得意だ」
「なんで除霊師志望になっちゃったの。なんで格闘技の道突き進まなかったの」
「サチヨのことだから、たぶん、拳で霊と語り合ってるんじゃないか?」
「物理で霊をノックアウトさせるなんて聞いたことないんですけど」
「いや、サチヨならやる。サチヨはそういう女だ」
どういう女だ。案内人さんの素の投げかけが暗闇に溶けて消えた。
束の間(サチヨによる)打撃音だけとなった空間で、案内人さんがはたと思いつく。
「ん? ということは、霊たちは怒りが鎮まったわけではなく、サチヨによって一時的にダウンさせられているだけってこと?
だとしたら、せっかく戻った安斎さんの寿命も、霊たちが目を覚ませば元通りなくなってしまうわけですか」
「……そのことなんだけど」
「どうされました?」
「できるのなら、俺の魂を今、元に戻してくれないか」
案内人さんは大きくたじろいだ。この人のリアクションいちいち面白いな、と思った。
「それは危険です! 言った通り、今安斎さんの魂を戻したとしたら、霊たちが目を覚ました時あなたに何をするかわかりません!
またあなたの命を奪い、いいえ、それどころか、霊たちはさらなる怒りをもって、あなたを魂ごと消してしまうかもしれません!」
「それでも、俺は行かないと」
「消滅してしまった魂は、私では修復することができません。
それでも、行くのですか?」
不安そうに揺れる瞳に見つめられ、俺は考えた。
魂ごと消える。だけどそれってどういうことなのか、ぴんとこない。
死んだまま、生まれ変わりの道が完全に断たれて、何者にもなれずにいなくなる? だけど本当にそうか?
結局、死んだ後のことなんてわからない。現に今だって、想像もしていなかった展開の中に俺はいる。
必死に心臓マッサージをして命を繋げようとしてくれる幼なじみ。
死んだはずの俺の魂を現世に戻してくれるという案内人さん。
死んだはずなのに。このまま終わるはずだったのに。
それでも生きる道が残っていて、俺はなぜかそこに立てているのだ。
だから俺の魂が消されてしまう場面が訪れても、どこかに必ず生きる道が存在している気がする。
なんて楽観的すぎるかもしれないけど、そう思わせてくれる人が、俺にはついていることを知ったから。
それに、あの写真を見たときに感じた思いを、追いかけてみたいとも思った。
「……さっきの写真」
「え?」
「俺がじいちゃんになるまで生きて老衰で死んだときの写真。
俺の周りを囲んでくれている人たち、これって、霊も交じってるんじゃないか?」
「あ、本当ですね。もしかして、尋常じゃないくらい人が多く写っているのは……」
「うん。俺は霊感がないから見えなかったし顔は知らないけど、たぶん俺の部屋にいた霊たちなんじゃないかな。
……おそらく、今回の出来事は、俺の人生の中に組み込まれていた一つのエピソードなんだよ。
霊たちの怒りに中てられて俺の寿命は尽きる、でもサチヨと案内人さんの力で現世に魂を戻してもらえる、その後霊たちと分かり合って共存していく、そして俺がじいちゃんになって天へ召されるとき、霊たちは俺の周りを囲んで、最期を見守ってくれる」
「まさか、そんなことが……」
「実際のところどうなのかわからないから、こうだったらいいなっていう俺の希望も入ってるけどね」
「もしも事の顛末があなたの言ったとおりならば、あなたはこれからの人生を、霊たちと共存していくことになります。
とても難しいことのように私は思います」
「難しい? そう?」
「そう? って。安斎さん、あなたは一度寿命を吸い取られて亡くなっているんですよ!」
「あれは、もともとこっちから向こうに仕掛けたせいだし、そのことをちゃんと謝って、分かり合いたいって思いを伝えれば、なんとかなるんじゃないかと。
霊だって意思がある。だとしたらそれって、俺となにも変わらないってことだろ。だったらこれは乗り越えられることだと思うし、乗り越えないといけないことなんだ。
でないと、あの写真が教えてくれた未来への道を、ここで諦めることになる」
写真を通してようやく認識できた彼らの姿は、俺の目にとても穏やかに映った。
年老いたサチヨと一緒に、涙を流してくれている。
それほどの関係になるまで、どれだけの時間がかかるのかはわからない。
案内人さんの言う通り、危険な目に遭うかもしれない。
だけど、そんなことより、彼らと共存する未来があるということが、俺をわくわくさせていた。
「安斎さん……。ふふ、あなたは変わった人ですね。
……わかりました。あなたの魂を、現世へと返還します」
「ありがとう、案内人さん」
案内人さんが両手を広げると、目の前に光り輝く門が現れた。
「生きたいと強く願いながらこの門をくぐってください。
一度意識を失うと思いますが、次に目を覚ましたときには、あなたの魂は元の体に戻っているはずです」
「生きたいと強く願いながら……」
「まさか安斎さん、ここまできてできない、なんて言わないですよね?」
「言わないよ。今日の出来事のおかげで、後世に残したいものができたんだ」
「それは?」
門の前まで歩いていった俺は、くぐる直前に立ち止まり、振り返って言った。
「髪ふさふさのDNA」
案内人さんがおかしそうに微笑んだ。
一歩踏み出すと、温かい光に包まれて、次第に意識が薄らいでいった。
「安斎さん、あなたが天寿を全うされた先で、お待ちしています。
ですから――――」
そこで、意識がふっと途切れた。
案内人さんは、最後に何て言ったのだろう。
その答え合わせは、ずっと先の未来までとっておくことにしよう。
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