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見慣れた紫色の座布団に、膝を曲げて正座する。電源の切れたテレビに反射した自分の姿を眺めているのは、その前に佇む人間に視線を集中させるのが不躾ではないかと考えたためで、決してここに呼ばれるのにうんざりしているとかそういうことではない。
「玲よ、急に呼び出して悪かったな」
「……いえ。ところで父上、そのコブは」
「エイプリルフールで母さんをからかったら殴られた」
「……」
……繰り返すが、うんざりしているわけではない。テレビ番組に影響されやすく、亭主関白に憧れた父がこんな感じで私室に僕を呼び出すのは昔っからのことで、今となってはそれに合わせる分別くらいは持ち合わせているつもりだ。
「今日はお前に一族の秘宝をやろうと思ってな。あ、手紙は後で読めよ」
和服の懐から取り出して、こちらに渡してきた一枚の封筒を、両手で賞状のように受け取る。中には折りたたまれた紙がひとつと、表面がつるつるしたカードが一枚。表が黒で、裏が白。よく見ると、白い面には写真屋のロゴが入っていた。
「……写真、ですか。何も映っているようには見えませんが」
「左様。その写真は一見ただの暗闇で撮った失敗作だ」
彼は散々もったいぶった後、仰々しく扇を開いてこう言った。
――『覗いた者の真実を写す』という点を除いてな。
「……ってことがあったんだけど、ヤバくねこれ」
「ええ。アンタらの知性がヤバいってことはよーくわかったわ」
艶やかなショートカットを弾ませて興奮交じりに詰め寄る玲に、私は自分でも驚くほど冷ややかな声で返答する。目線の高さは同じくらいなので、彼の瞳の中に自分の姿が見える。髪のセットは上出来だ、と頭の隅に浮かんだ雑念を振り払いながら、言葉を選んだ。
「第一、その会話で答えは丸わかりでしょう。今日は何月何日でしょうか」
「4月1日」
「じゃあ、何の日でしょうか」
「……?」
なんで小首を傾げる。父子共々馬鹿なのではないだろうか。
「さっさと行きましょ。せっかくのデートでエイプリルフールの話なんてしたくないわ、あんな下らない行事」
言外に答えを伝えて歩を進めると、察したのか彼はそれ以上何か言うことは無かった。気まずい沈黙が場を満たし、足音だけが響く。
「ちょっと待って、3秒」
唐突な警告に大した疑問も持たずに足を止める。きっかり3秒後、数歩先に鳥の糞が落ちてきた。ベチャ、という音とともに地面に白い染みが出来、顔をしかめる。
昔からそうだった。犬も歩けば棒に当たる、とは言うが、神様が警棒を持って追いかけてきていると錯覚する程度には何かしらの不運に出会う私を、この子はどうやってか先回りして助けてくれる。その未来が見えているかのような行動のせいで、いじめられないか心配であったのだが、寧ろ『不気味カワイイ』だかで女子から人気を集めているようで、私としては複雑である。
今日はそんな玲と出会うキッカケになった日でもある。そう考えると、連続で襲い来る不運もなんだか親しみ深く見えてくるものだ。
「ストップ」
目の前で看板が倒れて大きな音を立てる。
「ストップ」
木の枝から毛虫が落ちてきた。
「ストップ」
トラックが盛大に水溜りを踏み、泥水をまき散らしつつ角を曲がる。
……運命というやつはそんなに私に恨みがあるのだろうか。溝に足を突っ込んだり、風で新聞が顔面に飛んできたりするのはしょっちゅうだったが、改めてみるとひどいものだ。トラックの向かった方角から悲鳴が聞こえてきて、思わず同情してしまう。
「……駄目」
角を曲がろうとした突き当りで袖を引っ張られて、踵に力が入る。急に止められた文句を言おうと振り返ると、いつになく緊張した面持ちの玲の姿が目に入った。
「その先は駄目。まだ行かないで」
長い付き合いになるが、こんな表情を見たのは初めてで。聞いてはいけないと思いつつも、当然の疑問が口をついて出た。
「何があるの」
「……とにかく、駄目。俺が先に行くから、そこでしばらく待っていて。いい、絶対に戻ってくるまで待っててよ」
返答も待たずに彼は行ってしまう。足音だけが妙に大きく響き、遠ざかる――
あの子がそこまで怯える事態とは何なのだろう。風で揺れる住宅の壁を塗る足場、ファミレスの看板、灯油の移動販売車。全てが怪しく見えてくる。つい運転手を剣呑な目で睨んでしまい、慌てて微笑んで誤魔化した。
そもそも、いつも通り待つだけでいいはずなのに、彼が先に行ったのは何故なのか。そうでもしないと止められない不運なのか。
静かな路地で、心臓の音が一際響く。心はもう決まっていた。だって本来は、私があの子を守らねばならないのだから。
角を曲がった、そこには――
「すみません父上、止められませんでした」
「あーうん、良いんだ仕方ない……あと外でそのキャラは止めてくれ、恥ずかしい」
泥だらけのスーツを身にまとい散らばった花をかき集める、男性の姿。大分手遅れな汚れを軽く叩いて居ずまいを正し、私の目を見てこう言った。
「今日は、何の日でしょうか――」
「てっきり、忘れてるのかと思った」
4月1日は私たちの結婚記念日。午前中、それとなく外食の誘いでもかけようと同じ質問をしたところ、「エイプリルフールだろ?」という返答が返ってきたため、彼の額を反射的に殴ってしまった。その時に出来たであろうコブが痛々しく主張している。
「テレビでやっていたが、エイプリルフールの噓は午前中につくのだろう。あの日の誓いを僕は嘘にしたくないからね。覚えているかい?」
それは、もう。今でも思い返すと頬が熱い。
「『君が運命に嫌われているというのなら、僕も共に背負おう。そしてあらゆる対策を施して守ろう。同情でも何でもなく、僕のためにそうするんだ』だっけ?よくあんなクサイ台詞言えたよね。その後ほんとに不運になるし」
「一字一句違わず覚えてる君も大概だ」
じゃあ、これも覚えてるかな――そう言って息子に目配せする夫。玲は何だか呆れたものを見る顔つきだったが、役割を思い出した劇団員のように仰々しく、件の写真を差し出してきた。ただの真っ黒な紙切れ、いや、右下にオレンジ色の日付がある。
「……驚いた。こんなもの取っておいたのね」
私の不運は折り紙付きだ。それこそ、写真なんぞ撮ろうものなら何かしらのアクシデントが起きて絶対に私は映らない。結婚式であろうとそれは例外ではなく、確かあの日は停電が起きて、記念写真の類は中止になったのだ。その時の一枚であろう。
「背負うのだけでは半分だ。運命に抗ってこそ、僕の誓いは果たされる――と言っても普段は息子頼りだし、今回は頓智のような解決案なのが情けないところだがね」
夫と息子が、写真を手に持つ私に近付き、両隣から覗き込む。にこりと微笑みを崩さずに私の手元を見つめ続ける意図が分からず呆然としていると、しびれを切らした息子に顔の向きを矯正され、気付く。
「……ああ」
像がぼやけてよく見えないのは、涙のせいか、紙の材質のせいか。しかし日の下で、確かにそれは、今生初めて見る――家族写真だった。
「黒岩さん、その写真立て、何も入っていないようだけど」
黒いスーツに身を包んだ同僚に机の上の黒写真について問われ、どう説明したものかと思う。
『真を写す』と書いて、写真。けれどそこに込められた真実は、きっと人によって異なるものだ。視覚で得られる情報以上のものがある。例えば気取った夫の声。大人びた息子の声。いつも使っている洗剤の香り。そして――五感で受け止めきれないほどの、大きな大きな愛情、とか。
「……家族写真です、って言ったら驚きますか?」
――紛れもなく、一族の秘宝だよ。
したり顔の2人の姿が、鮮明に脳裏に浮かんで――じんわりとした温かさを残し、ふわりと消えた。
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