前編

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前編

 窓の外。間近を通りすぎていく中央線が、僕が住む築三十年ものの木造造りのアパートを激しく揺らす。頻繁に電車が通り過ぎていく線路と古びた雑居ビルに塞がった閉鎖的な景色だが、妹と一緒に実家を出て、このボロアパートに移り住んでからもう十年。随分と見慣れたものになってしまっている。  鉛色の雲からさめざめと降る雨。部屋の中には、生乾きの洗濯物が所狭しと吊るされていて、嫌な匂いを部屋に充満させていた。 「ごほっ……ごほっ……」  そう咳き込む度に、僕に残されたそんな小さな景色の輪郭がぼやけては、薄暗い真昼の光の中に溶けていく。風をひいても、看病してくれるような人はここにはいない。  妹が、勤め先だったキャバクラのボーイと何処かに消えてからもう一か月になる。  妹が最後に残した手紙には、「これからは、お兄ちゃんは、お兄ちゃんの人生を生きてください。今までありがとう。そしてごめんなさい」と書かれていた。詳細は省くが、性的な行為を妹に強要していた父と、それが発覚した後も表沙汰にならなように立ち回り、あまつさえ妹を責め立てるような調子だった母に嫌気がさした僕は、妹を連れて実家を出て、東京のこのアパートにやってきた。  あの頃、高校生だった妹と、高校を卒業したばかりの僕らの生活は楽ではなかったが、僕は未経験者でも雇ってくれるというIT系の会社になんとか入ることができたし、妹は未成年でも雇ってくれるスナックで仕事をするようになり、なんとか生活を軌道に乗せることはできた。異常な家から離れて、貧乏ではあるが正しく常識的で、平和な日常を送れるようにと願って、働いた。 「ごほっ……うう……」  よろよろと起き上がり台所で喉を潤し、再び布団へと戻る。一週間、高熱に曝され続けた僕の肉体は疲弊しきっていて、これしきの動作でもどっと息苦しくなってしまう。  生活を軌道に乗せることはできたけれど、僕が務めた会社というのは所謂ブラック企業という言うやつで、次々と迫る納期の中、ほとんど休みなしで働き続けたせいで数年ほどして倒れてしまって、雲行きはまた怪しくなる。 「お兄ちゃんは、元気になるまでゆっくり休んでて。今度は私が助ける番だから」  妹はそんなことを言って、スナックを止めて新宿のキャバクラに勤め始めた。  生活は楽になったが、糞みたいな父の性欲に傷つけられた妹が、糞みたいな男の性欲に曝されながら働くことを僕は認められなくて、一刻も早く新しい仕事を見つけなければと奔走し、介護の仕事に行き着いた。激務ではあるが、最初に勤めた会社のように連日会社に泊まり込んで仕事をすることはなかったし、どこも人手不足で仕事は山ほどあったので、働き口には困らなかった。 「ごほっ……」  鼻をかんで、テッシュが山を作っているゴミ箱に投げ入れたところ、スマホが震えだして着信音として登録している「虹の彼方へ」が流れる。  ちょうどその勤め先である介護施設の、所長からの電話だった。 「こんにちわ。どう調子は?」 「全然、治らなくて」 「病院は行った?」 「はい。でも……地元の病院だとよく分からないみたいで。大きな病院に行くように言われました」 「それって……例の病気の可能性があるってこと?」 「はい」 「海外旅行とか、行ってないよね?」 「はい。人が集まる場所にも行ってないし。これが例の病気だとしたら……仕事中に感染した可能性が大きいと思います」 「……そっか。そうか……」  なにか考え込んでいるのか、所長はしばし黙り込む。 「あのさ。そのまま自宅療養で、病気を治すこと……できないかな?」  意を決して口に出したその言葉の意味を探る。 「……えっと。コロナを隠せってことですか?」 「いや! そうとは言ってないでしょ。そんなこと言ったら大問題だし。それにその病気だって決まったわけじゃないんだから。ただ……そんなことが明らかになったら、それもそれで大問題になるなってだけで……」  少ない人数でぎりぎりで回しながらなんとか経営を成り立たせている僕が務める介護施設など、コロナの感染源だと認定されしばらく運営できなくなってしまえば、すぐに経営は破綻してしまうだろう。 「事態も事態だし、特別手当は出させてもらうから。どうだろうか」  困り果てた所長の言葉に押されるようにして、 「……分かりました。このまま自宅で……治します」  僕は、そう決断してしまう。 「ありがとう! しっかり療養して、元気になって戻ってきてよ。待ってるから」  安堵の息を漏らして、嬉しそうに所長は言って電話を切った。 「ごほっ……ごほっ……」  まだ決まったわけではないけれど、他人事のように見ていた伝染病騒ぎの当事者になるとは思ってもみなかった。そしてそれは、勤め先一つを傾けてしまうほど、影響が大きなものなのだと所長との会話で思わされた。  調子が悪くなってからもなかなか休みが取れるタイミングがなく病院に行けず、しばらく働いていた。仮にコロナだとして。僕は、介護施設のお年寄りたちや職場の人たちにどれほど菌を移してしまったのだろうか。圧し掛かる罪悪感と、熱でぼんやりとした意識が混ざり合って、今にも泣きだしたいような気持ちになった。  昼下がりの薄暗い部屋にひとりきり。吊るされた洗濯物に、汗まみれになった布団にくるまる僕だけが、取り残されたようにそこに置かれている。  その時。突然、窓の向こうを通過中の、オレンジ色のラインを引いた銀色の車両が、甲高いブレーキ音を鳴らしながら停止する。 「人身事故のため、緊急停止を行いました。ご迷惑おかけして申し訳ありません」  という車内放送が、こちらに漏れ聞こえてくる。  何があったのか調べようとネットを見てみると、女子高生が、その様を配信しながら電車に飛び込み、自らの命を絶ったということがすぐに分かった。窓の前を塞ぐ電車の中では、マスクをした人々がスマートフォンを苛々といじっていた。  一向に治る気配のない風邪を抱えて、部屋にこもりきっている間。僕はひたすら、亡くなった女子高生について調べていた。ネットに転がっている情報など真偽の程も定かではないし、遠巻きにいる僕が勝手な思い込みを垂れ流すべきことではないだろうから詳細は省くが、彼女にはそうするだけの理由があって、衆人環視の中でその行為に及んだということは確かだった。  彼女について語るネット上の人たちは、みんな偉そうで、優しくなくて、王様気取りで。それはまるで嵐に巻き込まれた川のように。我が我がと自我をぶつけ合いながら悦に入って、濁流となって全てを飲み込み傷つけあっているように僕には見えた。優しい人も勿論いたが、それもそれでその行為を認め、背中を押しかねない危うさがあって簡単には賛同できない。  いや、そんな風に他人事のように語るのは卑怯なのだろう。  自分の死を「迷惑なもの」と語り、謝りながらもその様を見せつけるようにして死んでいった彼女に対して、痛ましさという言葉だけでは捉えきれない感情を抱き、このような小説めいた文章を記してしまっているのだから。  あの忌々しい家の中でも、最初に勤めた会社で倒れた時も、そしてコロナにかかったかもしれない今この時も、僕はいつだって邪魔者、迷惑な存在として扱われてきて、ただただ孤立していった。多分、自分では気付かない欠落のようなものがあるのかもしれないが、そんなものを自覚して、彼らに対して引け目を感じるのだけは絶対に嫌だった。  それに、深く傷つきながらも強く生きている妹に比べたら、僕の孤独など傷というのもおこがましいほど軽いものでしかない。僕など所詮、誰にも必要にされない程度のことだ。要らぬところで必要とされて、悪意や欲望から伸びた手に、押し潰される血だまりの嘆きを僕は知らない。
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