後編

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後編

 しばらくして、介護施設に入所する前に、最後の旅行にと中国に渡航していたご老人が感染源であることが明らかになって、僕が勤めていた介護施設は一時的に休業することとなった。僕以外にも、それなりの数の感染者がいたらしい。  感染源のご老人は、まるで戦犯でもあるかのようにその存在をニュースに取り上げられていて可哀そうだったが、とにかくこれでなんの気兼ねもなく病院に行けるようになったと、僕はコロナの検査を行うために家を出た。耳にかかったマスクの違和感が、久しぶりに付けたからか妙に気になってしまう。  線路沿いに建つ雑居ビル群の上空には、まだら模様の雲がかかった爽やかな青空が広がっていた。くっきりと明暗を色づける陽の光は、暗がりの部屋に引きこもっていた僕にはどうにも刺激が強すぎて、くらくらとしてしまう。 「お兄さん」  後ろから、声をかけてくる男がいる。  まっすぐこちらを見る険しい目つきと太い眉は、強面ではあるが真面目な男という印象を抱かせた。刈り上げた坊主頭に黒いジャージといった出で立ちで、堅気ではないような趣がある。 「なんですか?」  初対面の人に対して臆する態度を見せるのは格好悪いし無礼だと思い、平然を装って問いかける。 「ユリさんのことで……話があって」  風邪でぼんやりとした頭に、突然投げかけれらた妹の名が響き渡る。  そして僕は即座に、男が誰だか理解する。 「君は、妹と一緒にどこかへ消えたキャバクラのボーイ?」 「はい。お兄さんの所にも、店の人……きましたか?」 「うん。君のことを探してた」  キャバクラのボーイがキャストと恋愛沙汰を起こすということは、夜の世界では最大の禁忌とされていて、見つかれば相応の制裁を受ける……というのをネットで見た。挙句に連れだって失踪したとなれば、店側も躍起になって探し出すはずだ。 「妹は、どこにいるんだ?」 「それは言えません」 「店の人には言わない。僕はただ、妹が……心配なだけなんだ」 「ユリに、お兄さんにだけは絶対に知らせるなと言われてるんです」 「どうして……」  激しい走行音を撒き散らしながら、通り沿いを走る線路の上を電車が通り過ぎていく。マスクの中に籠った熱い吐息が、顔中を汗ばませた。 「お兄さんを見ると、お父さんを思い出すから。思い出してしまうことが申し訳ないから……もう会わないって。だけど心配させたまま、何も知らせず消えるなんて良くないと思ったから、状況を知らせに来ました」  言葉というのは、どうして形がないのにこうも明確に心を揺らし、時に砕かんとばかりに激しい衝撃を与えるのだろう。「お父さんを思い出すから」と妹は言ったと、男は言った。 「ユリは、元気にやってます。それで俺達、明日には海外に飛びます。あいつは、絶対に幸せにしますから……安心、はできないかもしれないし、どこの馬の骨とも知れない俺のことなんか信じられないかもしれないですけど。ユリが選んだ選択を……信じてください」  それだけ言うと男は、周囲の目を気にしながら駆け足で去っていく。  危険を押してわざわざそんなことを伝えに来てくれる男の真面目さは、その容貌から受けた印象と相違ないように思えた。悪い男にでも騙されているのではないかと思っていたから、その点だけは少しだけ安心できた。  ユリは、僕を見ると性犯罪者の父を思い出すと言った。  僕は気持ち悪くなって吐きそうになってしまい、近くの電柱に向かう。しかしマスクをめくった所で、コロナを広める可能性があるそれを路上に撒いてはいけないと気が付き、よろよろと家に戻って、汚れがこびりついたトイレの中に嘔吐する。  その言葉を、僕は否定することができない。妹がキャバクラ勤めを始めて新たに部屋を借りるまで、共に過ごしたこの部屋で、時に僕の身体は彼女の甘い匂いに欲情し、呪わしくも勃起していた。泣き出したいような気持ちで、このトイレで自慰に及びその感情を消し去ろうとした。僕の身体には、あの父親の血が流れているんだ。一時的に射精で欲情は消せても、命を絶たねば根本的な解決にはならない。それなのに僕は、妹を守ると勝手に息巻いて、だけどろくに仕事もやり遂げられれないでお荷物になって。そんな糞みたいな有様を、妹に全て見抜かれていたんだ。  この生命が恥ずかしい。  僕は、何もかも吐き出すと病院に行く気力もなくなって、敷きっぱなしになっている万年床に倒れ込む。  スマホでさらさらとネットを見ると、今日も今日とて好き勝手に誰もが誰も神様気取りで持論を投げかけ、遠回しの快楽を得ている。例の亡くなった女子高生も、批判、同情、分析、拒絶、様々な捉え方の中ですっかりネットの玩具になってしまっている。彼女の望みは、沢山の人に知られることなのだから無視することも、ある意味でもうこの世にいない彼女を傷つけていることになるのだろう。勿論、僕だって彼女を玩具のように自分の観念の中で解釈してしまっている一人だ。どこにも抜け出る道はない。 「だけど僕が行く場所は、病院じゃない……」  空洞になった心に、沸き起こってきた言葉が口を衝いて出る。 「はぁ……はぁ……」  喉と口内をひりつかせ、身体の奥からせりあがってきた熱っぽい息が、吐き出されては辺りに拡散していく。  病に侵されほてった頬を、冷えた電車のスタンションポールにくっつけて冷やす。窓の向こう、沢山の人の住処が現れては消えていく。僕は中央線に乗って実家に向かっていた。両親に会うんだ。彼らに伝える言葉など何もないのだけど、この身に巣食う病を伝えるために。彼らの前で唾を飛ばし、くだらないことをべらべらとしゃべり倒してやる。その過程で死んでしまっても構わない。俺は、病院になんて絶対に行かない。多分この病は、人生の岐路に立った僕のために送られたギフトなのだから。  電車の中にはマスクをした沢山の人がいて、各々自分のスマートフォンを眺めている。 「ごほっ……ごほっ。うっ、うう……ううー……」  真昼の電車内で泣きじゃくり、相当頭のおかしな感じになってしまっている僕は、その悲しみに飲み込まれまいと必死に大声で笑いだした。当たり前のことだけど。罪なき人々は皆一様に、僕を汚物でも見るような眼差しで見つめていた。 <終わり>dfe917d0-7c1d-4d68-9140-b510079ab881
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