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桜木side
「依子さん、俺は随分前に引退したんで」
「できないの?」
あら?と依子が首を傾げる。
サラサラのロングヘアを掻き上げて微笑む姿に窓一枚隔てた通行人が一人、二人と立ち止まる。
いいなーとか思ってんだろうけど俺には地獄の時間だよ?
40近くなって緊張する相手と会うのは拷問。
でも子供を産んでも崩れてないボディラインにはあっぱれだ。
美しい。
目の保養になったよ、ありがとう、なんて言ったらボールペンで目ん玉刺されるだろう。
正当防衛とか言ってさ。
「謝礼は期待して」
依子が資料を指差す。
額を釣り上げたいから渋ってるわけじゃないし、自慢じゃないけど金ならあるし?
高校生の頃から自宅沿線では『人を選ばない美人』で有名だった依子。
要約すると万人受けする美人ということ。
それは今も健在で、子供を産んでからはさらに精神的にも強くなり、人を選ばない美人という最上級の形容を盾にその美貌で転がされることもしばしば。
外からは見えないテーブルの下で依子は脚を組み替える。
動くものを追いかける、いわば人間の悲しき習性でチラッと見たら長くて細い足の甲でふくらはぎを蹴られた。
あら?ごめんなさいと何食わぬ顔でコーヒーを飲む。
頭の片隅に競走馬が最後の直線で尻鞭される場面が浮かぶ。
美人は嫌いじゃない。
男として生まれたからにはむしろ好物と言っておこう。
頼まれたら大概のことは断らない。
エスコートに一夜のお相手などなど、頼まれるのは俺にとってメリットばかりだから快く受けてきた。
それもずいぶんと前の話だ。
確かにふわっと緩く生きていた時期もあったけど、運命的に出会った相手と別れてからはそれもやめた。
今は結構真面目に、丁寧に日々を生きていると思う。
「枯れてるの?」
依子の視線が無遠慮に下半身に移動する。
なんの心配だよ。
知ってるくせに知らないフリの一つもできないとか、依子さんらしいといえばらしいけど。
「仕事中ですよね?」
「そうね」
「なんなら試します?」
裏通りをチラリと見る。
「詳しいのね」
「抜け道探すのが好きなんですよね」
「そんな勇気ないくせに」
喫茶店の前のメインストリートはひっきりなしに人が行き交う。
平日の10時なんて保険会社なら鬼着信タイムだろう。
なのに、この人はどんな時でも余裕綽々だ。
まぁ、電話なんて取らなくてもいいご身分に出世したってことか…
唯一、依子が慌てたのが子供ができた時だった。
それも喜びの方に感情が振れていたのがなんというか予想を裏切られて可愛かった。
可愛いっていっても血も涙もない孤高の女の、人としての愛らしさってこと。
そこに他意はない。
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