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俺も黙って紙を押し返す。
小遣い稼ぎで始めた保険会社の事故調査員。
とはいっても、正攻法なやり方じゃない裏取り調査だ。
調査を入れるための調査みたいなもんで、違法じゃないけどモラル的にはアウト。
世間様に顔向けできないことも含まれる。
あの時に比べれば本業（というか家業？）も忙しくなったし、もう小遣い稼ぎも、時に憂さ晴らしも必要ない。
歳を食って落ち着いたというか、スリルよりもたぶん平穏を噛み締める日々に満足している。
それなのに久しぶりに新たな仕事の依頼とか。
よりによってターゲットが……
ありえないだろ？
「趣味と実益を兼ねて、ね？」
「どっちも間違ってますし、どっちもありえない」
「そう？だから“最後に”って」
悪びれる様子もない。
他人の名誉には興味ゼロの依子はそこいらの政治家より肝が座っているし、こうなったら折れない。
「どうしてもできない？」
と、依子。
含みのあるそれが来ると、そろそろお決まりのアレが出そうだ。
「できないことはない。それはやらないだけよ！」
そうそう、これ。
人生の半分以上関わってきた人なので仕事に対する姿勢も生き様も嫌と言うほど知っている。
このむちゃくちゃな格言は母ちゃんの早く宿題しなさいよ！より耳タコだ。
「今回はお遊びじゃない」
そう依子は神妙な面持ちで断言する。
遊びじゃない…
趣味と実益はさておき、過去に依頼された件は半分お遊びでやってたのは確かだ。
でも今回は違うって？
俺も遊び半分でもう近づきたくはないのに、なおさら嫌じゃん？
依子の瞳の奥に闘志が見える。
クールビューティーと形容されることも多い依子がこんなに色々と隠しきれてないのは珍しい。
問題はどこに本気で怒ってんのか…なんだけど、資料に目を落とす。
表紙からは当然何もわからない。
さてどうする？
これ以上ごねてもな…
依子と過ごすうちに美しい引き際なるものを身に着けたと思うけど、でもやりたくないんだよ、マジで。
「絶対ないと思いますけど？」
「保険会社の社員の前で“絶対”は使わないで」
ピシャリと注意を受け、首をすくめる。
はいはい。
絶対と決めつけないのが基本ルールでしたよね。
「じゃあ、“ない絶対”とやらを証明すればいいと？」
「できるものなら」
「拗れたら慰めてくださいよ？」
「喜んで」
依子にはブレがない分ハレーションも起こらない。
彼女の日常は淡々と日々が積みあがっていくだけだ。
それも成功という名の成果。
俺が立ち上がり、資料と一緒に伝票も取ろうとしたら伝票だけ取り上げられた。
「経費で落とすから」
「次の出張は？」
「来週、熊本かな」
依子の現在の生活拠点は大阪。
で、今は出張中で東京。
さらにその後に熊本へ移動する、らしい。
「こちらは頼人の受け入れOKですよ」
「ごめんね。いつも助かる」
ごめんね、とか子供のためなら言えちゃうんだよな、この人は。
「当たり前でしょ？」
「当たり前？」
「我が子ですよ？何言ってんですか？」
あぁ、と依子は頷いた。
信頼されてないわけじゃないけど、当てにはしてくれない。
いつまで経っても他人なんだよな。
「ありがとう」
でも伏せた目元が少し和らいだ気がする。
もっと頼って欲しいと言ったらきっとまた頑張るだろうから言わない。
天の邪鬼だからね、依子さんは。
依子に対する思いは恋人を思う気持ちとは違う。
でも絶対に不幸にはなってほしくない人だと言える。
「じゃあまた連絡します」
依子を残し、喫茶店を後にする。
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