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悪魔の花嫁3
悪魔の花嫁3
蛇口の一件で、この悪魔はけっこうな魔力の持ち主だと悟った私は、やがて、どうにかしてこいつの力で生活が楽にならないものかと思いを巡らせるようになった。
私が疲れきって眠り込んでしまった翌日、どんな不思議な術を使ったのか、悪魔は約束通り、蛇口をつけ直してくれた。そして、そればかりかシャワーはつけるは、壁面をタイル張りにしてくれるはの全面改築を成し遂げていてくれた。
「風呂くらい豪華じゃないとな!!」
と、悪魔は、壁に寄りかかって呆然と中を見ていた私に向かって機嫌良さげに笑って見せたが、私は、風呂だけこんなに豪華でどうするんだよ、と考えつつ、形ばかり薄く笑い返した。
そして、ある時はなだめすかし、またある時はひっぱたきながら、悪魔にこの教会を改装するよう迫ったが、教会自体の古さは気にならないのか、掌を返したように元の役立たずに戻ってしまった。
本当は、こんなボロ教会、一瞬で新築できるのかも知れないが、奴は私の願いを頑として受け入れてくれる事はなかった。だいぶ後になって、確かに、悪魔に教会を建て直してくれと頼んだのは酷だったかもしれないと気づいたのだが。
「食べ物を出してくれるとか、そういうのはできないのか?」
私が問うと、
「神父のくせに、悪魔に食い物せびって恥ずかしいとか思わないのかよ?」
と返された。
できない、とは言わなかったので、きっと何か手品のように取り出す事ができるのかも知れなかった。私はじっと悪魔を見つめたが、悪魔は軽蔑したような眼で私をちらりと見て、そっぽを向いてしまった。
別に、食べ物をもらうのに恥ずかしいとか言っている場合ではなかった。私にいつも食べ物を恵んでくれるのは、神ではなく、たいていパン屋か、隣の占い師達であったから。
++++++++++
隣の怪しい占い師は、ある時から私の所に居候がいるのを見つけ、時々茶会などに誘ってくれているらしい。
そして、教会まで送ってきてくれては、私を見てににーーーっと笑った。悪魔は色々洋服やら食べ物をもらって帰ってきては、
「タダだし、いいよな!!」
と私に一応聞いているつもりなのか、いちいちもらった物を見せびらかした。私はとりあえず、はしゃいでいる悪魔を置き去りに、また帝都一優しいパン屋の所へ出かけた。
この頃は、パン屋も悪魔の事を知っているのか、私が訪ねると必ず二人分のパンを分けてくれた。どうしようもない程のお人好しだった。
普段だとまだ電灯を点けて店を開けている時間だったが、何故か今日に限ってパン屋は真っ暗だった。今日は休業なのかも知れない。引き返そうとした私の背後で突然耳をつん裂くような叫び声があがった。
パン屋の声だった。
私は即座に駆け寄り、扉を開けようとしたが、鍵がかかっているようで、ガチガチと金属音はするものの、いっこうに開きそうもなかった。
窓から中を覗くと、店内がひどい有様で、パン屋が妻から逃げようとしている様子が伺えた。妻とは、以前私の所へやって来た歌姫ユキだった。ファンが見たら倒れそうな形相で、手当たり次第にそこらのものをパン屋めがけて投げつけていた。
騒ぎを聞きつけて悪魔や、占い師やその同居人の絵描きやら近所の連中がふらふらと近づいてきた。
「ワ~何してるの~楽しそう~」
絵描きは、天才にありがちな、どこか視点のおかしな所がある人間だった。占い師は冷静で、
「止めた方がいいのかな?」
と私に聞いた。
「なになに?殺し合い??」
と悪魔が嬉しそうに浮遊して私に擦り寄ってきたので、とっつかまえて、
「扉が開かないんだ」
と言うと、
「どっちか死んだら食べてもいい??」
と微笑みながらぞっとするような言葉を返してきた。
「たまには言う事をきいてくれよ……扉を開けてくれ」
私の焦っている姿が面白かったのか、私の言葉にけたけた笑うと、悪魔は右手をひらりと上空に差し出した。
そのとたん、扉ではなく、通りに面した窓硝子が全てぶち割れた。悪魔はけらけら笑い続けていたが、叱っている余裕はなく、私や職人はその硝子の山を踏み越えて店内に飛び込んだ。
一瞬だけ、この硝子の弁償代はもしかして、私の所に回ってくるのではないだろうか、という恐怖が頭をよぎった。店内では、まさにユキがジューサーに夫の手を押し込めようとしているところだった。
++++++++++
「だってこの人が、西の白浜ビーチまで修行に行きたいなんて言い出すんだよ」
いうなりユキは、わっと泣き伏した。夫のパン屋はまだぜいぜいと肩で荒い息をしている。
西の白浜ビーチとは、帝都よりさらに栄えている海街だった。パン屋はそこへ修行の旅へ出たいと言い出したのだそうだ。
「だったら、一緒に行くって言ったの。そしたらこの街にはここのパンを楽しみにしてくれてるお客さんがいるのだから、オレのいない間頑張って、なんて言うんだよ……」
泣きながらよれよれになりつつ語るユキは、もはや帝都の歌姫の面影はみじんもなかった。しかしその言葉を聞いて、その客と言うのは、もしや自分の事では……と私はぼんやり考えた。
だとしたら、二人を引き裂こうとしているのは私では?
「……たしかに、何年かかるか判らないけど」
パン屋は、声をかけようとした私を遮って話し始めた。
「もっと上達できると思うんだ。君と一緒だと君に絶対頼ってしまうし……」
ユキはじっとうずくまっていて、パン屋の方を見ることはしなかった。
「……でも、あんたが戻ってきたとき、私がとても変わってしまっていたら、気が変わってしまうかも知れないじゃない。年をとってしまっている私より、西の白浜ビーチの若い子で誰か、いいと思う人ができてしまうかもしれないよ?そうしたら、ここへは戻って来てくれないんじゃない?私の事などすっかり忘れてしまうんじゃない?」
静かな店内に元歌姫の声が響いていくたび、空気が沈んでいくのが判ったが、誰もかけてやれる言葉が見つからず、ただその流れる言葉を聞いているだけだった。
しかし、端の方で、近所に下宿している見習い医学生が硝子を片付けているのを眺めていた悪魔が、突然振り返って言い放った。
「でもさあ、人間が年とるのなんて、当たり前だろ!お前が変わったとしたら、そいつだって変わってるはずだろ?お互い様じゃん!たかがあと六、七十年くらいのことで騒いでんなよな!」
++++++++++
それから数日のち、パン屋は隣組面々に見送られて、西の白浜ビーチへの長い修行の旅に出た。
私は、硝子代の請求も(皆で悪魔をおだてまくり奴に直させた)、食い扶持を奪われる事もなく、ユキ一人で守っているパン屋に施しを受け続けていられるようで、内心ほっとした。元歌姫は私が行くたび、悪魔のことを色々楽しげに訪ねてきて、
「神父様、前にお会いした時は独り身だったのにねえ」
とか、
「たまにはどこかへ連れて行ってあげたりしなきゃあ駄目ですよ」
などと言って占い師に良く似た嫌な笑い方で毎度パンを手渡してくれるのだった。
悪魔は、どこでもらってきたのか、林檎を床に転がして遊んでいた。
悪魔にとって、私が歳を取って、死んでいくまでなど、きっと、眠って起きて、たった一晩くらいの間の事の様に思えるのではないだろうか。だからちっぽけな契約で少しくらい縛り付けている気になっている私に付き合ってくれているのだろう。
私がいつか死んだら、すぐまた遊び相手になりそうな人間をみつけに行くに違いない。
悪魔の日々とは途方もなく永く、退屈との戦いであろうから。そう思うと、私は何故か少しだけ、淋しいような気持ちになった。
「なあ、それ、食べないならくれよ」
私が声をかけると、悪魔ははたと私を見上げ、いつもの小馬鹿にしたような笑い声をあげた。
私はまた何かおかしな事を言ったのだろうか?床に転がしていたものを食べるなという意味だろうか?
この頃、私が何か言うたびに悪魔は機嫌がころころ変わった。今はとても機嫌が良い様子で、笑いながら右手を私の前に差し出して、手首を一ひねりした。するとその手には真っ赤な林檎が。
この床に散らばったものは全て悪魔が取り出したものなのだろうか。やっぱり食べ物を取り出せるのではないか……。
「お前って、ほんとおかしな奴だよな!」
悪魔は今は意地の悪さの抜けた微笑を見せている。時々こういう綺麗な顔をする時があったが、そういう時は大抵何か企んでいる時なのだ、という事を私は学んでいた。
差し出された林檎を取って、一口かじってみた。
しかし、別に味がおかしいでもなく、市場で売っているものよりもむしろ美味しいくらいで、私は首をかしげてみせた。
それがまた悪魔を面白がらせたのか、悪魔はとたんに爆笑しながらこう言った。
「悪魔の取り出したものとか、平気で食うなよな!お前聖書とか読んだほうが良いぜ!!!」
私はもちろん、聖書など読んでみようと思ったことすらない神父なのだった。
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