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卒業
流れゆく季節が今年も春を告げる。
薄紅の降りしきる清々しい晴れの日に、体育館から聞こえるピアノの旋律が、新たな門出の幕を開けようとしていた。
――森ヶ崎高校卒業式。
長たらしい校長の祝辞も終わり、いよいよとなった最終演目。
新芽の芽吹く今日の良き日に旅立ちの声援を送ろう、そういって涙した生徒会長を筆頭に、卒業生が立ち上がる。
使い古したブレザーは、初めて袖を通したときとは比べものにならないほど小さく感じ、胸につけたエンブレムはこれまでの全六八五日間を通い終えた証だ。
旋律を奏でる綾香は、今年から晴れて志望校の音大の進学が決まっている。
しばらく静寂に包まれていた門出の舞台に、それぞれの声が重なる。
指揮者に目配せを送り、流れる音色は心地良いほどに滑らかで理想的だった。一同に唱う同級生たちから、時折聞こえる掠れ声は気のせいではないだろう。
今日、私たちは卒業する。
進学するもの、就職するもの、それぞれの道を歩み始める。いろんなことに悩んで、苦しんで、それでも前に進む。
綾香もまたそのひとりであった。愛でるように触れた鍵盤の一つ一つに想いを載せる。
少女の心に無意識に哀愁を灯しながら、桜色の花びらが鍵盤を深く、もう一度、強く沈める。
ふと、その脳裏に、かつての記憶が浮かんだ。
「……ふう」
担任との最後のHRも終わり、同級生たちは仲良しで固まって話の花も散っていたころ。
綾香は未だ校内をうろついていた。なにかを確かめようにそっと歩いては止まり、また、止まる。
目に映るものすべてが、かけがえのないもののように。その情景を写真に撮り続けた。
式の終った校内は、静けさに包まれた森のように、落ち着いた空気を感じる。誰もいない廊下を渡り、教室の扉を開ける。
机に書かれた落書きをさすり、一番前の席に腰掛け、なかをぐるりっと見回した。
黒板に書かれた寄せ書き。十人十色のクラスメイトがかつて過ごし、描いた軌跡はとても穏やかでまぶしい。
一喜一憂した教壇の上に片足を乗せて、くすりっと笑う。
窓から流れる木漏れ日。一息ついて立ち上がり、階段を降りた。
校門付近で滞る女子たちは、別れの哀しみに頬を寄せ合っている。木陰で話す後輩の涙に、優しく笑いかける男子。
そのどことない日常を懐かしく感じて。ああ、と声が漏れる。泣くにはまだ早い。時計を視ると、まだ正午を廻っていない。足早に校門を潜り抜け、駆け出す。
通い慣れた通学路を左に逸れて、花屋を通り、丘を目指す。桜並木の石段を一段飛ばしで駆け上がり、色づいた高揚に胸がときめく。
そびえるように根を張る千年桜の下。そこに、彼はいた。
「……おっ、きたなっ」
張り詰めたなにかを溶かすように、甘美な囁きが耳を撫でる。
「元気にしてた?」
もじもじと後ろに腕を組んで、彼の微笑みを待つ。
「そっちは?」
同い年のくせにいつも大人びた様子で聞いてくる彼に、頬が緩む。
「うん、まぁまぁかな……っ」
「なんだそれ」
ほころんだ口元につい瞳をやってしまうのは、決してやましいわけではない。
春の霞んだ雲のうえに、ぽっかりと埋まった喪失感は、あの日のすべてを洗い流すように、澄みきっている。
「今日は、報告があるの」
「なんだい」
意を決して唇を結ぶ。気持ちの良い空気を胸一杯に吸い込んで、言葉を紡いだ。
「ピアノ、続けようと思う」
「……そっか」
少し残念そうな彼の表情は、それでいて儚い。
「――そして、いつか必ず、アンタを越えてみせるから」
決意を孕んだその言葉に、少年の瞳が僅かに揺らいだ。次に放たれた朗らかな笑顔には、安堵と期待を侍らせる。
「じゃあ、お祝いしないとなっ」
桜並木の丘の上。その最奥にそびえるように根を生やす千年桜の下で、一輪の風が頬に染まった紅を舞い散らせる。凝視する彼の姿はうっすらで、もう見えていることすら疑わしい。
彼はおもむろに立ち上がり、まるで鍵盤を撫でるように、指を添えた。風に載って運ばれた小さな花びらが、ヴェールのごとく少年を包む。
空気が震えた。
それまで聞こえていた小鳥のさえずりも、風の音も。いまは耳に入らない。あるのはピアノ、君の全部。
桜ノ雨がふりそそそぐ。群青の海のなかで、たった一人の観客に届ける愛唄。
思考が加速して一秒が、とてつもなく遅い。見開かれた瞳に渦巻く言葉に出来ない感情を、奏でる。全身に鳥肌が逆立つ。肺が酸素を求め、肩が上下に揺れる。ゆったりと、堕ちるように指が、音を捉える。
その一間に想いを、命を、すべてを載せて。僅かに残る自身の存在を吐き出すように――。
歌う。
「……ああ」
私の喉から短い声が漏れた。
鍵盤の沈む音、弾かれる弦。優しく、いたわるような感触、不意の静止。歓喜の轟き。
全身から水分が抜け去った。艶っぽい黒闇の繊維がなびいて、振り絞った涙が宙を舞う。
昔、ピアノの大好きな少年がいた。
いまさらのように思い出したかつての記憶に、胸が鋭く痛む。
私たちはいつも一緒だった。でも彼はいつも私を置いて、ずっとずっと先を行ってしまう。
そのことが辛くて、そんな彼が愛おしくて。私は彼の背中をずっとずっと追い求めた。
高校2年の春。事故だった。
高齢者の運転する乗用車が横転。歩道にいた16歳の少年は、幼馴染の女の子と家に帰る途中だった。
――いつも、一歩まえを歩いている。
即死だった。ぐちゃぐちゃになった体は見るも無惨なものだったという。2人の生死を分けたのは、たった数メートルの差だった。
あの時なにもできなかった自分が悔しかった。いっそ私が代わりに死んだほうがマシだった。だってこんなにも、苦しい思いはしなくて済んだのに。
あの時置いていってしまった彼女が心配だった。オレに依存しなくても生きて欲しい。
オレではなく、彼女として。君は――。
好き、好きなの。
溢れ出るものがある。言葉にすると陳腐で。どうしよもなく君を想い、そのたびに涙する。その瞳に、指に触れて、私は。
伝えたいことがある。でも口にはできなくて。ただ君だけを感じ、君のために奏でる。
―――好きだ。
鍵盤が沈む。モノトーンの世界が悲しく彩られた。となりにはいつも君がいて、何度も何度も練習した曲は、あの時と同じ。
なにも知らない私の記憶。
ようやく勝ち取った栄光は、けれども自分のだけの力じゃなくて。やっぱり君のおかげで。
そこに言葉はいらなかった。ただ奏でる音で私たちは想いを届ける。
――ほら、奇跡なんていくらでも起こせる。お前はもう、それだけの努力を重ねてきた。
かつて耳にした言葉が胸を反芻する。違う。それは君がいたからだ。私は君を追い求めて、どこまでも前を行く君に届きたくて。ひたすらにがむしゃらに、腕を伸ばした。
手を伸ばしても、届かない距離。どんなに走っても、いつも私の先をいって遠ざかってしまう。
溢れ出るものがある。それは言葉にできなくて。でも、そう。例えるのならこれは……。
見開いた瞳に君がいる。なにも変わらないその笑顔を私に向ける。
見開いた瞳にお前がいる。変わっていくその姿が愛おしい。
「ずっと、お前を見てる」
涙でぐしゃぐしゃになった視界を、目一杯に開いて。少女は静かに微笑んだ。ビブラートの余韻のように、いつまでもいつまでも、胸ときめくこの想いに、身を焦がれさす。
「じゃあ、もういくね」
「――おうっ」
もう聞こえるはずのない、そんな声に包まれて、私は新たな旅路へと足を進める。
これ以上の会話は不要だった。互いの目を見れば、語らずとも想いは伝わる。
「ああ、そうそう……」
最後に思い出したように、ゆっくりと振り向いて、もう一度君を見る。手許に潜めていた花束が揺れ、優しくかざす。
「――卒業、おめでとう」
けれども少年がそれを受け取ることはない。代わりに、滑らかに磨かれた石面に、そっと花弁が手向けられた。
きょとんっとした愛らしい瞳はきっと潤んでいて。人形のように繊細な指は色白で。
かつて少年であった亡骸を埋めた冷たく重い石の棺、その下で、彼は眠っている。
瞳を閉じればいつも、君が隣にいてくれた。まぶたの裏に焼きついたその背中はどれほど私を強く、奮い立たせただろう。
「いつか、私も――」
いまはもう見えることのない。その背中を追って、私は旅をする。何年、何十年かかるかわからないけれど、それでもいつか。
たまには、顔出せよ?
心のなかで君が笑う。
うん、わかってる。
その瞳に最大級の微笑みを乗せて。
流れゆく季節が今年も春を告げる。祝福を告げるように君が花びらを散らせていく。
晴れ晴れとした温もりに包まれて、少女はようやくその恋に卒業した。
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