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ブランカの死
雪と氷に覆われた静かな森の中に、ひっそりと佇む魔女の家があった。その家にはブランカという年寄り魔女と、ハンナという幼い少女が隠れるように暮らしていた。
ハンナはいつものように日の出と共に目を覚まし、暖炉の前で程よい温度に暖められたぬるま湯で顔を洗った。
この日、一緒に住んでいるブランカの姿が見当たらなかった。いつもならとっくに起きだしている時間だ。彼女は心配になり、ブランカの寝室のドアを叩いた。
しかし、返事はなかった。もう一度叩く。
「おばあさん。おきてる?」
また、返事はない。ハンナは寝室のドアを開け、中に入っていった。
ベッドの上に、ブランカは横たわっていた。目は閉じており、毛布はきちんと胸の上まで掛けられていた。
「おきてよ」
ハンナはブランカを軽く揺さぶった。その時、痛切に違和感を抱いた。何かがおかしい。
「おばあさん……?」
ブランカは眠るように死んでいた。体は冷たく硬直し、何の感情も読み取れない空っぽの器に成り果てていた。
ハンナはしばらくの間呆然とその場に立ち尽くしていたが、それでも暖かい涙は後から後から勝手に頬を伝い、着ている服の襟を濡らしていた。
「どうしよう……」
ハンナがそう呟いたのと同時に、玄関の扉が何者かにノックされた。
「クヌート、きたのかな」
ハンナは全速力で玄関まで出て行った。重い扉を開けると、見知った男が立っていた。背丈はハンナの何倍もあり、何も感情を読み取れない不気味な空気を纏っていた。
「よかった! クヌートかえってきた」
ハンナが呼びかけると、クヌートの表情が微かに緩んだ。
彼は、ハンナがブランカの元に預けられたのと同じ時期にこの家に来た青年だった。見たところ歳は二十歳くらいだろうが、正確なことは本人すら把握していない。
そんな彼は何日か前に家を出たきり、今日まで一度もこの家に帰ってこなかった。普段から、彼は度々煙のように姿を消すことがあった。「クヌートはどこへいったの?」とハンナがブランカに尋ねると、ブランカはただ一言、「近くの村よ」と言った。
クヌートがどこで何をしているのかよくわからなかったが、彼が帰ってくると必ず妙な臭いがした。
「ブランカは?」
クヌートは短くそう尋ねた。ハンナの目にまた涙がじわじわと滲んだ。あと一歩早ければ、彼はブランカの最後を看取ることができたかもしれない。ハンナは事の次第を説明しようとしたが、幼い少女はそれだけの語彙を持ち合わせていなかった。
「少し前に、ブランカから手紙を貰ってたんだ。もう先が長くないから、お前を知り合いの魔女の家に連れて行ってほしいと」
クヌートは淡々とした調子でそう告げた。彼の肩には、ブランカが手紙を持たせたであろうワタリガラスがとまっていた。
「えっ?」
ハンナは首を傾げた。
「聞いていないのか」
「ううん」
「遺書か何か預かってないか」
「わからない」
ハンナはまためそめそし始めた。クヌートはそんな彼女を慰めるわけでもなく、静かに家の中に入っていった。ハンナも泣きながらそのあとに続く。
家の中はしんと静まり返っている。寝室のドアを開けると、ベッドにブランカの遺体が横たわっていた。クヌートはしばらくの間、ぼんやりと遺体を眺めていたが、ふと思い立って遺体に手を伸ばした。
その瞬間、ハンナにとって信じられないことが起きた。
ブランカの体が透けたかと思うと、すうっと青白く光り、煙のように消えたのだ。ハンナは訳が分からずクヌートの脚にしがみついた。
「どうして? ねえどうして?!」
「魔女は死んで時間が経つと消えるんだ。肉体は精霊が持っていく。それも聞いていなかったのか」
クヌートは静かに答えた。
「おばあさんはどこにきえるの? せいれいさんはたましいをもってどこへいくの?」
ハンナは尋ねたが、クヌートはそんな彼女をほったらかしにして、家の中をごそごそと物色した。
「やっぱりここか」
彼は机の引き出しの中に手紙のようなものを見つけると、ハンナのところへ戻ってきた。封筒にはブランカの筆跡で「ハンナへ」と書かれている。
ハンナはクヌートから手紙を受け取ると、恐る恐る折りたたまれた便箋を開いた。
『ハンナへ
朝起きて、もし私がどこにも見当たらなかったら、もし私が冷たく動かなくなっていたら、その時はクヌートや彼の知り合いのノーチェさんを頼りなさい。私のことは放っておいて大丈夫ですから、お墓もいりません。
クヌートにはあらかじめ言っておくつもりですが、ここからずっと北にヨルンという町があります。そこへ連れて行ってもらいなさい。そこから最北へ出ている犬ゾリに乗れば、私の弟子の魔女のところへ行けます。きっと頼りになるはずです。
それから、家の中のものは何でも持って行って構いません。でも戸締りだけはちゃんとして、庭にいるウサギやトナカイたちは外に逃がしてやりなさい。あなたなら無事に村まで辿り着けると信じています。
そうそう、最後にこれを言っておかないと。クヌートはもしかしたら、あなたには理解ができないような恐ろしい行動をとることがあるかもしれません。でも大丈夫。怖がらないで。どうか彼を責めないであげてください。そして、彼がわからないことは、あなたが教えてあげなさい』
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