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ノーチェの村
冷たく澄みきった空気の中、クヌートは早々に旅の荷物をまとめ、庭にいた若いトナカイの背中に積んだ。ハンナは気持ちの整理をする暇もなかった。ただできるのは、目の前にいる大人の後についていくことだけだった。
ブランカが死んだ翌朝、二人は一頭のトナカイを連れて住み慣れた小屋を出発した。ハンナは小屋から持ってきたブランカのペンダントを握りしめ、泣きながらクヌートの後ろを歩いていた。
「今日は山を下りて、一番近い村まで歩く。夕方には着くはずだ。そこで家から持ってきたものを売る。そこには知り合いがいるから何とかなるだろう」
クヌートはハンナを気遣ったり、慰めたりするような真似はしなかった。それどころか、淡々とした口調でそう告げると、泣いているハンナからネックレスを取り上げてしまった。
「あっ……」
ハンナは取り返そうと手を伸ばしたが、小さな彼女ではとてもクヌートの身長に適わなかった。
「後で返す」
彼は抑揚のない調子で、ただ一言そう言った。
真冬の山を下るのは容易なことではなかった。夏場であればすぐに辿り着ける距離も、歩く場所を選びながらだと倍の時間が掛かった。
ハンナは時々深い雪に足を取られて転倒した。見かねたクヌートがかんじきを履かせたが、歩くペースが遅いので最終的には自分の肩に乗せてしまった。
お昼頃にようやく森を抜け、広い雪原に出た。ここは雪さえなければ色とりどりの草花が咲き乱れる美しい草原で、動物たちの憩いの場にもなっている場所だ。しかし今は静かな白銀の世界が延々と続いているだけである。
雪原の真ん中に、葉の落ちた白樺の木が佇んでいた。クヌートはその木の枝にトナカイの手綱を括り付けた。食事の時間だ。真冬の旅の唯一の楽しみである。
持ってきた荷物を広げ、地面に軽く穴を掘り、乾いた白樺の皮や小枝を敷き詰めて火を着けた。小さな鍋に積もったばかりの雪を入れ、火の上で溶かしていく。ハンナは自分のリュックから干し肉を取り出した。干し肉は凍っていたので、火に近づけて溶かさなければならなかった。
「おなかへった」
ハンナが言うと、クヌートがパンをちぎって寄こした。もちろん、パンもカチカチになっていた。
二人が食事をしていると、真っ白な雪原の彼方に、黒い人影が見えた。距離が掴みづらいが、人影はどんどんこちらへ近づいているようだった
クヌートは警戒した様子でじっとその人影を見ていた。やがて人影は一人の男であることがわかった。この辺りではあまり見ない黒髪で、クヌートよりだいぶ背は低いが、屈強そうに見えた。
「おい、お前たちこの辺でトロール見なかったか?」
男はクヌートの顔を見ると、ふと思い付いた様子で尋ねた。二人は一瞬混乱し、互いに目線を送った。
「なんだ、そんなにびっくりするな。トロールを見たのか見てないのかって聞いてるだけだぜ」
「……見てない」
二人はほぼ同時に答えた。気さくそうな男ではあったが、クヌートは彼に対する警戒を解かなかった。
「なぜトロールなんか探すんだ」
クヌートは男に問いかけた。どうも嫌な気配を感じる。服を捲らずとも、全身に鳥肌がたっているのがわかった。
黒髪の男は一瞬顔をしかめたが、すぐに「見てないならいいさ」と言って二人に背を向けた。
「最近、この辺りでトロールを見かけたとかいう話を聞いてな。……まあ、一応気を付けてな」
男はそう言うと足早に立ち去っていった。
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