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3. 昼休み
午前の授業が全部終わってお昼がきた。弁当を持ってきていない生徒たちがぞろぞろと食堂へ向かっていく中に、流されるようにして僕もいる。裾穂さんはいつもお弁当だからお昼には会えないのが、僕の日常の不幸のひとつだった。そんなこと言ってたら、中学からは年がら年じゅう大不幸ということになっちゃうな。近所ならいいけど、彼女をスカウトしたのは県外の学校なのだ。成績至上主義の親を持つ僕らみたいな身の上のこどもは街に遊びに行くのもタイヘンなので、大して仲良くもない子とすれ違うだけの目的で県外旅行なんて絶望的な夢だった。母の推しアイドルがその学校の近隣でライブをしてくれたらわんちゃんあるかもしれない。わんちゃんあるって、公立の制服を着たちょっとやんちゃそうなお兄さんとかがよく言ってるけどどういう漢字を書くんだろう。
食堂で今日のお膳を貰って適当な席に着く。なんとなくひとりになりたい気持ちだったので、友人達を避けて目立たない影の席を選んだ僕は、目の前の柱の向こうでトレイを持って列に並ぶ裾穂さんを見つけて仰天した。今日はお弁当じゃないの? あ、これを聞いてみよう。話のとっかかりってやつだ! そのまま成り行きで一緒にお昼を過ごせるかもしれない。僕はお茶を貰いに行くていで彼女の後ろに並んだ。
「す……、かなめちゃん」緊張で真っ白になりそうな頭の中で、今日はお弁当じゃないの、を必死に唱えまくる。彼女は振り返らない。「かなめちゃん、」もう一度呼ぶけど、やはり反応がない。今日の主菜のチキングリルを棚から受け取っている。「す、裾穂さん」
そこで彼女が急にしゃべりだした。「西崎くんってどうしていつも私のことを呼ぶとき姓名を悩むの? 必ず一音目は『す』でしょう。つまり、裾穂の姓を呼ぼうとしているわけでしょう。なのにそれを一旦キャンセルして、『かなめちゃん』って下の名前を呼ぶ。いつも不思議に思っていたの。そうしたら今日、もう一度『裾穂』に呼び方を戻したよね? しかも『さん』という敬称までつけたわ。これは世間一般にも言えることだけれど、どうして名前には『ちゃん』をつけて、苗字には『さん』をつけるのかしら。西崎くんはどうして?」
僕は彼女が応えてくれた喜びと、やっぱり今まで気づいていたけど無視していたのだと知った哀しみと、僕自身の心理に関する問いを受けた恥ずかしさに加えて日常にありふれた謎をぶつけられた困惑で、心の中がいっぱいになった。よく煮込んで牛乳をかけたらボリュームのあるシチューができあがりそうだなって思ったのは、おなかが空いてたからかな。僕は混乱して置いていかれそうになるのを、恋のパワーでなんとか乗り越えた。この言い回しはよく母がするものだ。あの人は推しアイドルへの恋のパワーで人生をやり過ごしているのだ。
「えっと……僕、かなめちゃんって呼びたいんだ」
「好きにしたらいいよ。でも、西崎くんが言いたいのは『かなめ』のほうなのかな。『ちゃん』を言いたいなら『裾穂ちゃん』と言い換えてもいいはずだものね」
「そ、そうだね。あの、裾穂さんの下の名前を言いたいんだ、僕」
「ではなぜ苗字で呼び換えるの?」
「なれなれしいの、嫌いかなって思って」
「よく知ってるね。でも、私が思うに『なれなれしい』というのは呼び方に顕れるものではなく態度に顕れるものじゃないかしら。たとえば理由もないのに話しかけてきたりとかね」
「それ、もしかして僕のこと言ってる?」
「ご名答。用は済んだ? お茶なら反対側にサーバーがあるからこちらに並ぶのは適切じゃないよ」
嫌味がまんてんだ。僕は列を外れながらテンポよく皿を受け取っていく裾穂さんを眺めて立ち尽くし、心の底からかなしいのにその皮肉っぽい言いぐさに改めて恋してしまったのを、どうしていいかわからず困っていた。
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