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(……何が言いたかったんだろう?)
もっと違う事を聞きたかったのではないかと、誉は瑞貴の後姿を見送った。
その背中は細くて、どこか頼りない。オメガとしてこの世に生まれた彼が、今まで何を思い、何に苦しみ、何を悲しんできたのか……。おそらく平坦な毎日ではなかったはずだ。
実は、瑞貴の素性は謎に包まれたままだ。身分を証明できる物もなく、矢木の実験協力として理生研に来た経緯も、それまでどう生きてきたかも、実は誰も知らないのだ。
以前、神原なら聞いているかもしれないと尋ねた事もあったが、彼は首を横に振って言った。
『瑞貴が自分で話そうと思った時に聞くつもりだ』と。
続けてこうも言っていた。
『瑞貴がどんな人生を送ってきたかより、これからどう送るかだろ。その手助けが出来たら嬉しい』とも――。
彼らしい台詞は優しさに溢れていた。瑞貴を実の弟のように大切に思っている事は間違いなく本心なのだろう。けれど、それを聞いた瑞貴はどうも気に食わない様子だった。本当の身内でもないのに、弟扱いだけはされたくない。そんなところだろうか。
「何だか……難しいな」
短い嘆息を漏らした後、再びスマートフォンを手にする。気を取り直して藪中に連絡を入れようとした。
「……ダメだ」
通話は押さなかった。報告は研究室に戻ってからの方がいい。もう一度、頭の中をちゃんと整理して伝えたい。逸る鼓動を抑えながら誉は思った。
(藪中さん……喜んでくれるのだろうか?)
彼の反応を想像するだけで更に心拍数が上がった。大丈夫、落ち着けと、自らに言い聞かせながら足を進めたが……。
(待てよ……これって)
ここで更に重要な点に気付いてしまう。
婚約はしている。入籍も明日だ。誰がどう言っても、藪中路成とは運命の番であり、未来を誓い合った関係だ。けれど今の状況はと、誉の堅物な性格が爆発した。
「もしかして……『出来ちゃった婚』ってやつじゃないでしょうか……!?」
順序が逆じゃないかと、大きな声が廊下に反響していた――。
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