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学校からの帰り道、イライラして舐めていた飴を噛み砕いた。
今日受け取った模試の結果は、第一志望校の判定のランクがBからCに下がった。安全圏に入っていたのに、合格の可能性は五分五分になったのである。
勉強は好きじゃないが、課題をさぼったことはない。志望校の合格には必要なことだと思い、予習・復習も欠かさずやってきた。頑張ってきたのだ。だから受験直前の模試の結果は受け入れられなかった。
教室でのやりとりを思い出すと、胃がむかついて熱くなってくる。
「鈴ちゃん、模試どうだった?」
近くのクラスメートが訊いてきた。鈴ちゃんなんて馴れ馴れしい。挨拶もたまにしかしない遠い関係なのに。
「前回と変わらない。合格圏内にいるよ」
私は顔色も変えずに嘘を吐いた。
みんな自分の受験のことしか考えてないように感じられた。少なくとも教室で私は閉塞感しか覚えなかった。
三年生になって初めて、女生徒だけのクラス、通称『女クラ』になった。これまで異性もいる教室で過ごしてきたから、違和感を感じることが多い。
まず彼女らはトイレにペアで行く。思わず「つがいか!」と黙ってツッコミを入れる。
そして小さなグループが沢山あり、それぞれが干渉し牽制し合っている。苦手なのは、仲良くつるんでいた人の悪口を平気な顔で言うこと。言われた方も、またどこかで同じような言動をしていることだ。
馴染めない私は、ほとんど一人で行動していた。陰口くらい叩かれているだろうし、あまり良くも思われていないだろう。
私個人に興味はなくても、模試の結果には興味津々か……。嫌だ。なにより嘘を吐く自分が一番嫌いだ。
うなだれ、とぼとぼと歩き、五階建ての古びた団地に辿り着く。自宅は三階だ。階段を昇る足取りも重くなる。金属にペンキを塗っただけのドアを開ける。3LDK。私が生まれたときから住んでいる家の内装はくたびれている。
「ただいま」
靴を脱ぎながら、母に声をかけた。
「おかえり」
母は台所で夕飯を作っていた。
「母さん、今日の夕ご飯は何?」
彼女の機嫌を探るように訊く。
「今日はハンバーグにしようと思って」
そういえば、炒めた玉ねぎの甘い匂いが漂っている。
「手伝おうか?」
申し出ると丁重に断られた。
「鈴ちゃんは、勉強があるでしょ。ご飯は後で部屋に運ぶから、気にしないでいいの」
ハンバーグのタネから空気を抜くためのリズミカルな音がしていた。
「ありがとう、部屋で勉強しているから」
晴れない気持ちを抱え、自分の部屋に向かった。
暖房を付けて椅子に座り、勉強机の上の模試の結果を改めて見直す。何度見返しても、C判定はひっくり返らない。思わず天井を見上げる。
泣きたくなる。でも泣けない。両親にとっての私は、この上なく良い子なのだ。幼い頃から、いい成績を取ることが何より大切だった。母が、父が褒めてくれるのがただ嬉しくて、目的もないままに一生懸命勉強をした。
通知表に並ぶ5の数字こそが私と両親を繋ぐ細い糸だったのかもしれない。
「鈴ちゃん、頑張ったね。お父さんに今日はケーキを買って来てもらおうね」
テストで満点をとるたびに、両親はいつも喜んだ。そして甘ったるいケーキを一緒に食べてくれた。それは儀式のようでもあった。
父はいわゆる中小企業のサラリーマンだ。生家が貧しく大学に行くことが出来なかった。高校を卒業してすぐに就職したそうだ。
「鈴にはいい大学に入って、安定した仕事に就いて欲しい」
酒に酔うと、よく私に言って聞かせた。
地元の進学校に合格したときは、母は凄く喜んだ。泣きながら私をギュッと抱きしめ、
「鈴ちゃんは私たちの夢なのよ」
と言った。
両親のことは当然好きだったが、だんだん大きくなっていく期待に応え続けることが辛くなっていた。
二人は、上手くいっていない。原因はどうも父の浮気のようだった。ある日、母が夜中に泣きながら父をののしる声を聞いてしまった。
大学に合格して、一人暮らしをしたかった。二人から逃げたかった。
「ブルッブルッ」
数少ない友達からLINEだ。誰からだろう?
『私、学校行くのが怖くて辛い。もう無理だよ。どうしよう人生詰んだ。死にたい』
奈緒子からだ。彼女は小学校からの幼馴染。目立つタイプではなく教室では本を読んでいることが多かった。彼女と初めて話したとき「ああこの子には負けた」と感じた。利発さと優しさに私は負けを認めたのだ。
私は学校の勉強は出来たかもしれないけれど、それは手段だった。でも奈緒子は違った。本当に学ぶことが好きで、知識を吸収してくこと自体を楽しんでいた。ショックを受けた。
奈緒子には本音が言えた。私は彼女の前でだけ、泣くことが出来るのだ。
画面を見て切迫していると思った。私が知っていたかつての親友は、死にたいなんて冗談でも言う子ではなかったはずだ。
頭から、模試の結果が吹っ飛んだ。
「今からすぐ行くから、お願い! 待っていて」
焦り過ぎてメッセージがなかなかうまく打てない。
大慌てでダッフルコートを着て部屋を出た。
「鈴ちゃん、どこへ行くの?」
「奈緒子の家」
母は、びっくりしていた。彼女とは大喧嘩をして疎遠になっていたことを知っていたからだ。
「気を付けて」
と言って、首にマフラーを掛けてくれた。
「行ってくる」
私はまっすぐ団地の前の通りを駆け、公園を過ぎ、力の限り奈緒子の家を目指し急いだ。
息が切れる。でもそんなことどうでもよかった。
私が、両親の期待に押しつぶされそうになって泣くことも出来ずに悩んでいたとき、そっとファンタジーの本を貸してくれた奈緒子。
つかの間、夢の世界に行くことが私でも出来た。涙というものを初めて他人の前で流せた。
それなのに裕福で自由な彼女が羨ましくて、妬ましくなって一方的に酷いことを言ってしまった。それは彼女に、私が本当に行きたかった私立の名門女学院に進学することを聞かされたときだった。
「奈緒子には私の気持ちなんて絶対に分からない」
「そんなことない。私、鈴ちゃんのことが大好きだよ。学校が変わっても親友だよ」
「だから、わかってないんだよ!」
******
奈緒子の家の表札の前に立ちインターフォンを押す。ほどなく彼女のお父さんが、
「鈴ちゃん。久しぶりに……。ありがとう、さぁ入って下さい。奈緒子の奴、部屋の鍵も開けてくれなくて」
憔悴した表情で彼女の両親は、顔を見合わせて言った。
私は二階にある奈緒子の部屋に駆け上がった。扉の前で慎重にノックしてみる。
「奈緒子、鈴だよ。久しぶりだね、お願いだから開けてくれないかな」
私はあえて明るく言った。
応答がない。心が押しつぶされそうだった。かつての罪悪感、そして劣等感がよぎる。でも、彼女の身の安全がずっと大切だった。
「奈緒子、開けて!」
力いっぱいノブを回す。カチャカチャと音がするだけだ。
「奈緒子お願い!」
私は叫んだ。もし、奈緒子がこの世から消えてしまっていたらどうしよう。とてつもない不安が襲う。やっぱり奈緒子はかけがえのない親友なのだ。
だから、祈りながら諦めずにドアを叩き、呼びかけ続ける。
「鈴ちゃん」
か細い声が聞こえた。
「奈緒子!」
私は彼女が生きていたことに心底ホッとした。それからカチッと音がしてようやくドアの内鍵が開けられた。はやる心を抑えてゆっくりとノブを回した。
部屋の入口に、真っ青な顔をした、奈緒子が立っていた。
「鈴ちゃんと話したい」
彼女は両親にそう言った。彼らは心配だっただろうに私たちを二人にしてくれた。そして、
「鈴ちゃん、どうかお願いします」
とお父さんに言われた。しっかり気を落ち着けようとしたが、まだ私は動悸が止まらなかった。
部屋に入るとすぐに奈緒子が泣きながら抱き付いてきた。驚いたが彼女のぬくもりが、ここにあることがただ嬉しかった。私はしっかり抱き返した。
一体彼女に何があったのか、見当も付かなかった。それでも、無理に理由は訊かなかった。奈緒子が生きていてくれさえすれば、それだけが私の望みだってやっとわかったから。
奈緒子は打ち明けてくれた。
「私、ずいぶん前から学校に行くことが出来なくなって。勉強も好きだし、友達も一応いるけれど、あそこで過ごすのが辛くて」
「何が辛くて学校にいけないの?」
「たくさんの課題と予習・復習があるの。完璧に消化しようとするとどうしても時間が足りなくて……。疑問に思ったこともそのままにして暗記して、本を読む時間さえ取れなくて。何のための勉強か分からなくなって。甘えって言われるかもしれないけれど、教室が私には息苦しくて」
「そういうの奈緒子は苦手そうだもんね」
私は、奈緒子の頭を撫でながら言う。
彼女の気持ちが分からないわけではなかった。私も受験勉強は一人暮らしをする為だって言い聞かせて、何とか折り合いを付けているだけだ。
物事を深く理解するために勉強をしている奈緒子には、ストレスになるのかもしれない。
「でも、辛くて休んでいる間に勉強について行けなくなってしまって。こんなこと初めてで、もうどうしたらいいのか分からなかった」
小説やドラマのエピソードとしては平凡かもしれない。
でも、私たちにとっては厳しい現実なのだ。だから、奈緒子の負担を軽くしてやりたいと思った。
「馬鹿だな、奈緒子は。私がいるじゃん。学校は違ってもそう進度は変わらないし補習してあげるよ」
軽い調子で言った。
「でも、鈴ちゃんだって自分の勉強があるし。今が受験生は一番大切な時期でしょう。落ちこぼれの留年寸前の私に付き合って沈むことないよ」
「奈緒子、じゃあ、どうして私に連絡してくれたの? 助けて欲しかったんじゃないの? 真面目に考えすぎると人生詰んでばっかりだよ。命がいくつあっても足りないんだから」
「鈴ちゃん、ごめんね」
「ううん、謝るのは私の方。LINEの名前を見て嬉しかった。中学の卒業間近に酷いこと言って一方的に奈緒子を拒絶してしまったよね。それなのに、まだ私のことを頼りしてくれて。本当に、本当に、命があって良かった」
私は久しぶりに泣いていた。
「死んじゃおうかなって思ったときに、鈴ちゃんにもう一回だけでいいから会いたいって思ったんだ。だから、返信が来たとき怖いけれど嬉しかった」
奈緒子も泣いていた。
「私たち一緒だね。実は逃げたいことがあるのは私も同じ。受験直前なのに、模試の成績が下がってた。親の期待を考えたら言い出せなくて。その両親は上手くいっていないみたいでさ、最悪」
私は俯いて打ち明けた。
「鈴ちゃんだってずっと大変だったんだね」
奈緒子は申し訳なさそうにうなだれる。
「あのね、奈緒子。私たちお互いに都合の悪い事情を抱えてるよね。今回あなたが『死にたい』ってLINEを送ってくれてから、私あなたの家まで夢中で走った。間に合って良かった。でもまたお互いに辛いときがくるかもしれない。そんなときは死んだつもりで乗り切ろうよ」
「死ぬ気で頑張るの?」
奈緒子が聞き返す。
「逆だよ。死んだつもり。本当に死ぬとか自殺未遂とかとは意味が違うからね。言い換えるなら『死体ごっこ』。耐え難いくらい嫌なことがあるときは、頭の中で死んだふりをするんだよ。死んだふりしている間は何をしてもいいんだ。自分にとって、楽しい・好きなこと・心地が良いことをするの。一種の逃避ってやつだと思う。だって死んでいるんだから縛られるものなんてないんだよ。そして、また起き上がれそうになったら息を吹き返す。私も奈緒子も逃げる場所が必要だと思う。生き返ったら、命があることに感謝して、ゆっくり焦らないで立ち向かえばいいんじゃないかって」
「鈴ちゃん凄い! さぼる為の口実だね」
二人で顔を見合わせて笑う。
「そうだね。奈緒子も私もお互いに一人で張りつめて無理し過ぎていたのかもね。人生が詰むことなんて先が長いんだからきっとまたあると思う」
「先のことを考えると怖いよ。でも鈴ちゃんがいてくれるだけでとっても心強い」
「私たちには、心に遊びが必要だったんだと思う。周りのこと考え過ぎたり、自分一人で何でも解決しようとしたり余裕がなさ過ぎたんだよね」
「そうだね」
奈緒子が頷く。
「だね。私も模試の結果をちゃんと親に話してみるよ」
「それから鈴ちゃん、また連絡してもいい? 勉強は教えてくれなくてもいいから。ただおしゃべりしたいときとか……」
「今さらかい」
私は、ツッコミを入れる。そして、彼女の頭を撫でた。また奈緒子は泣いていた。
彼女の両親からは何度も頭を下げられ、かえって私は恐縮した。
帰りは、街の灯りを見ながらゆっくり歩いて帰った。朝のイライラはどこかに行ってしまったようだ。
自宅に帰ると珍しく父親と母親が揃っていた。
「奈緒子さんどうかしたの?」
母が心配そうに尋ねる。私は、
「うんちょっと色々あって。でももう大丈夫だから」
と答えた。父が、
「寒かったろう、母さんのハンバーグ旨いぞ」
と勧めてくれる。だが食べる前に伝えたいことがあった。
「あのね、私、お父さんとお母さんに言わなきゃならないことがある。この前の模試の結果、C判定出しちゃった。成績落としちゃったんだ」
「そんなことか」
父はなぜかホッとした表情で言った。
母にいたっては、
「鈴ちゃん。成績が落ちたって、頑張った結果だもの。気にしないでいいのよ」
と言ってくれた。
拍子抜けした私は、ただ出されたハンバーグを味わって食べた。それを見ている両親は珍しく笑い合っていた。
後日、両親から聞いた。電話で奈緒子が丁寧にお礼を伝えていたのだと。
私たちにはきっと立ち向かわなくてはならないもの、越えなければいけないものが、これからも沢山ある。でもその中にかけがえないものは確かにあるのだ。
大切なものさえ見えなくなったときは、思い切って死んだつもりになってしまえばいい。
そこからきっとまた違うものに気付けるはず。『死体ごっこ』は生きる口実だ。
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