李典伝

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3. 典好學問,貴儒雅,不與諸將爭功。敬賢士大夫,恂恂若不及,軍中稱其長者。年三十六薨,子禎嗣。文帝踐阼,追念合肥之功,增禎邑百戶,賜典一子爵關內侯,邑百戶;謚典曰愍侯。 (訳) 李典は学問を好んで儒雅を尊び、 諸将と功績を争わなかった。 賢者・大夫を敬い、 恂恂として及ばぬが若くで (まじめで謙虚な態度を取っていた) 軍中では長者として称えられた。 三十六歳で薨じ、子の李禎(りてい)が嗣いだ。 文帝(曹丕)は※踐阼(せんそ)すると (※帝位を継承すること) 合肥に於ける功績を追想し、 李禎の食邑を百戸加増して 李典の一子に関内侯の爵位と 百戸の食邑を賜った。 李典に「(びん)侯」と諡した。 (註釈) 36歳か……若いなぁ……………。 司馬朗みたいに 江南の風土病で死んじゃったのかな。 「愍」の諡は、「諡法解」によれば ① 在國逢難曰愍。 ② 使民折傷曰愍。 ③ 在國連憂曰愍。 ④ 禍亂方作曰愍 わざわいをなした、だの 難事に遭遇した、だの どっちかというと マイナスの意味合いが強いんですなぁ。 早死にしちゃったので ①の意味合いが強いと思います。
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