劉馥伝

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死してなお合肥を守り抜く。 3. 建安十三年卒。孫權率十萬衆攻圍合肥城百餘日,時天連雨,城欲崩,於是以苫蓑覆之,夜然脂照城外,視賊所作而為備,賊以破走。揚州士民益追思之,以為雖董安于之守晉陽,不能過也。及陂塘之利,至今為用。 (訳) 建安(けんあん)十三年(208)に卒した。 孫権が十万の軍勢を率いて 合肥(ごうひ)の城を百日余り攻囲したが、 この時の天候は雨続きで 城が崩れそうになっていた。 ここにおいて苫の蓑で 崩れそうな箇所を覆い、 夜は(魚の)脂を燃焼させて城外を照らし 賊の作す所を視て備えを設けたので 賊は破られ、敗走していった。 (生前の劉馥が遺していった 防備のおかげで孫権に勝てたので) 揚州の人士や民衆は ますます劉馥を追慕するようになった。 (かつて) 晉陽(しんよう)の守りに当たっていた董安于(とうあんう)と雖も 劉馥以上ではないとされた。 (劉馥が設けた) 堤防の利は、現代に至っても用を為している。 (註釈) おおおおお〜!! 赴任から約8年で亡くなってしまいましたが 彼の設けていた備えが 孫権の侵攻をはじき返しました。 以降、合肥および合肥新城は 一度たりとも落とされる事はありません。 鉄壁の要塞なのです。 劉馥評価。 戦闘 ★★★★★ 5 戦略 ★★★★★ 5 内政 ★★★★★★★★ 8 人格 ★★★★★★★ 7 地方官としてほぼ文句なしですね。 続いて息子の劉靖伝いきます。
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