付、劉靖伝

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父の遺風を継ぐ。 4-1. 馥子靖,黃初中從黃門侍郎遷廬江太守,詔曰:「卿父昔為彼州,今卿復據此郡,可謂克負荷者也。」轉在河內,遷尚書,賜爵關內侯,出為河南尹。散騎常侍應璩書與靖曰:「入作納言,出臨京任。富民之術,日引月長。藩落高峻,絕穿窬之心。五種別出,遠水火之災。農器必具,無失時之闕。蠶麥有苫備之用,無雨濕之虞。封符指期,無流連之吏。鰥寡孤獨,蒙廩振之實。加之以明擿幽微,重之以秉憲不撓;有司供承王命,百里垂拱仰辨。雖昔趙、張、三王之治,未足以方也。」靖為政類如此。初雖如碎密,終於百姓便之,有馥遺風。母喪去官,後為大司農衞尉,進封廣陸亭侯,邑三百戶。 (訳) 劉復の子の劉靖(りゅうせい)黄初(こうしょ)年間(220〜226)に 黄門侍郎(こうもんじろう)から廬江(ろこう)太守に遷った。 詔勅はこう述べている。 「卿の父は昔、彼の州(の刺史)となり、 今卿もまたこの郡に拠った。 負荷に克つと謂うべきであろう (父の事業をよく受け継いでえらいぞ)」 転じて河内(かだい)に在る際に尚書(しょうしょ)に遷り、 関内侯(かんだいこう)の爵位を賜りて、 出でて河南尹(かなんいん)となった。 散騎常侍(さんきじょうじ)応璩(おうきょ)は 劉靖に書状を与えて述べた。 「入りては納言(なごん)となり 出ては京の任に臨まれましたな。 民を富ませる術は長い日月を要します。 (あなたは) 藩落(まがき)を高く峻しくされて 穿窬(せんゆ)(塀を乗り越えるぬすっと)を絶ち、 五種を別けて出されて 水火の災い(水害や旱魃) を遠ざけられました。 農器具は必ず具えられ、 ※時を失するという落ち度がありません。 (※穀物の収穫の時期を間違えません?) 蠶麥(蚕から取れるむぎ)を 苫(雨避け)の備蓄として用いられ 雨や湿気の(おそ)れを無くされました。 期限を指した符を封じて 流連(遊び歩く)の官吏を無くされ、 鰥寡孤独(しゅうかこどく)(やもめや独居老人、孤児)には 倉廩(そうりん)(米倉)を振るわせて実を(こうむ)らせました。 これに加えて、 幽微(表に出ない犯罪)を明確に摘発され 重ねて、憲法を固く守って(たわ)めませぬ。 有司は拱手して王命を承り、 百里は垂拱(すいきょう)して弁を仰いでおります。 かつての※趙・張・三王の治と雖も (なら)べるに足りません」 (※趙広漢(ちょうこうかん)張敞(ちょうしょう)王尊(おうそん)王章(おうしょう)王駿(おうしゅん)。 全員、前漢で京兆尹(けいちょういん)を勤めた) 劉靖の為す政治はこうした例の如くであった。 当初は煩瑣(はんさ)(細かくて面倒)であったが 最終的に百姓がこれを 都合のよいものとした事には、 劉馥の遺風が有った。 母が亡くなると官職を去ったが 後に大司農衛尉(だいしのうえいい)となり、 昇進して広陸亭侯(こうりくていこう)に封じられ 食邑は三百戸であった。 (註釈) 劉馥の死が208年前後、 十数年後に息子の劉靖(りゅうせい)が揚州へ。 この分だと劉馥は早死にしたんだね。
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