付、劉靖伝

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学問の完成を目指して。 4-2. 上疏陳儒訓之本曰:「夫學者,治亂之軌儀,聖人之大教也。自黃初以來,崇立太學二十餘年,而寡有成者,蓋由愽士選輕,諸生避役,高門子弟,恥非其倫,故無學者。雖有其名而無其人,雖設其教而無其功。宜高選博士,取行為人表,經任人師者,掌教國子。依遵古法,使二千石以上子孫,年從十五,皆入太學。明制黜陟榮辱之路;其經明行脩者,則進之以崇德;荒教廢業者,則退之以懲惡;舉善而教不能則勸,浮華交游,不禁自息矣。闡弘大化,以綏未賔;六合承風,遠人來格。此聖人之教,致治之本也。」後遷鎮北將軍,假節都督河北諸軍事。靖以為「經常之大法,莫善於守防,使民夷有別」。遂開拓邊守,屯據險要。又脩廣戾陵渠大堨,水溉灌薊南北;三更種稻,邊民利之。嘉平六年薨,追贈征北將軍,進封建成鄉侯,謚曰景侯。子熙嗣。 (訳) 上疏して儒教の訓の基本について述べた。 「そもそも学ぶこととは 禍乱を治める儀軌にして 聖人の大いなる教訓でございます。 黄初(こうしょ)(曹丕の在位期間)以来、 太学を建立して二十余年になりますが (学問を)成し遂げた者は寡ないのです。 蓋し(おそらくは) 博士(先生)の選考が甘く、 生徒たちが労役を避けようと して(入学して)、 名門の子弟は※その倫類でない者 (と付き合う事)を恥じているために 学ぶ者がおらぬのです。 (※同列となる事を恥じている…かも) その名は有りても人はおらず、 (太学とは名ばかりで志士無し) その教育は設けられていても 功(効果)は現れておりませぬ。 宜しく博士の選考を厳しくされ、 行いが人物の手本となる者を採用し 経学を修め人物の師となる者に任せ 国子(名門子弟)の教育を掌らせましょう。 古代の法に依り遵いて 二千石以上の(官吏の)子孫を 全員太学へ入学させます。 黜陟(ちっちょく)・栄辱の路を明確に制定し その経書に明るく行いを修める者は 則ちこれを進める事で徳を崇め、 教育や学業を荒廃させる者は 則ちこれを退げる事で悪を懲らしめます。 善を挙げれば教える事が出来ずとも 則ち勧める事になり 浮華(実質の伴わない華やかさ)、交遊は 禁じずとも自ずと収まりましょう。 大いに教化を闡弘(せんこう)(広める)する事で いまだ(したが)わざるを綏んじれば 六合は風化を承けて 遠方から人が来格いたしましょう。 これぞ聖人の教えにして 治世招致の根本にございます」 その後、鎮北(ちんほく)将軍、 仮節都督河北諸軍事(かせつととくかほくしょぐんじ)に遷った。 劉靖は 「經常の大法として 防守より善いものはなく、 民、夷を分別すべきだ」 と主張した。 かくて辺境の守りを開拓し 屯集して要害に拠った。 一方で戻陵渠(れいりょうきょ)の大堤防を修復、拡大して 水を引き、薊の南北を灌漑した。 三更に稲を植え、 辺境の民はこれを利とした。 嘉平(かへい)六年(254)に薨去し、 征北(せいほく)将軍の位を追贈され 進みて建成(けんせい)郷侯に封じられ (けい)侯と諡された。 子の劉煕(りゅうき)が嗣いだ。 (注釈) 有名無実化しつつあった 太学のシステムを見直し、 三代曹芳が廃位させられるまで 地方の活性化に努めました。 劉靖評価 戦闘 ★★★★★ 5 戦略 ★★★★★ 5 内政 ★★★★★★★ 7 人格 ★★★★★ 5 目立たないだけで、魏には いい人材がいっぱいいますね。
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