司馬朗伝

2/12
前へ
/334ページ
次へ
内外代々大柄です。 1. 司馬朗字伯達,河内溫人也。九歲,人有道其父字者,朗曰:「慢人親者,不敬其親者也。」客謝之。十二,試經爲童子郎,監試者以其身體壮大,疑朗匿年,劾問。朗曰:「朗之内外,累世長大,朗雖穉弱,無仰高之風,損年以求早成,非志所爲也。」監試者異之。後關東兵起,故冀州刺史李邵家居野王,近山險,欲徙居溫。朗謂邵曰:「脣齒之喻,豈唯虞、虢,溫與野王即是也;今去彼而居此,是爲避朝亡之期耳。且君,國人之望也,今寇未至而先徙,帶山之縣必駭,是摇動民之心而開姦宄之原也,竊爲郡内憂之。」邵不從。邊山之民果亂,内徙,或爲寇鈔。 (訳) 司馬朗(しばろう)は字を伯達(はくたつ)といい、 河内(かだい)(おん)県の人である。 九歳のとき、 彼の父親を字で呼ぶ者がおり、 司馬朗は言った。 「人の親を(あなど)る者は 自身の親をも敬わぬ者ですよ」 客はこの事を謝った。 十二歳で経書の試験を受けて 童子郎(どうしろう)となったが、試験の監督者は その身体が壮大(立派で大きい)である事から 司馬朗が年齢を(かく)しているのでは ないかと疑いを持った。 司馬朗は言った。 「(わたし)の内外(父方・母方)は 代々身体が大きいのです。 朗は幼弱と雖も高きを仰ぐ風はなく、 年齢を偽って早成を求める事は 志す所ではありません」 試験官はこれを立派であると見なした。 その後、関東で挙兵があって もとの()州刺史の李邵(りしょう)野王(やおう)に居していたが 山の険峻に近かったために 拠点を温県に移そうとしていた。 司馬朗は李邵に対して謂った。 「唇と歯の喩えがありますが どうして()(かく)だけに 当てはまると言えましょうか。 温と野王も即ちこれなのです。 今、あちらを去って こちらに居したところで それは朝に亡びるという期を 避けただけのことです (結局夕方には亡ぼされます)。 かつ、君は国人の 希望(を荷う方)です。 今、寇(賊)が至らぬうちから 先んじて移ってしまえば 山間の県は必ずや(おどろ)いてしまいましょう。 これでは民の心を動揺させてしまい、 姦宄(かんき)の端緒を開いてしまいますぞ。 密かに郡内のために これを憂えるものです」 李邵は従わなかった。 山岳周辺の民は果たして混乱し、 内部に移ったが、中には 寇となって掠奪を働く者もいた。 (註釈) 秦が滅亡した時に、 司馬卬が初めて河内に 封じられたんだったよね。 それから約400年、 司馬氏は河内を拠点にしています。 司馬朗のセリフからすると 司馬家は代々大柄のようです。 ということは司馬懿も司馬孚も かなりデカイのかな。
/334ページ

最初のコメントを投稿しよう!

233人が本棚に入れています
本棚に追加