付、劉靖伝

4/4
前へ
/334ページ
次へ
孫は晋の名臣……? 註1. 晉陽秋曰:劉弘字叔和,熙之弟也。弘與晉世祖同年,居同里,以舊恩屢登顯位。自靖至弘,世不曠名,而有政事才。晉西朝之末,弘為車騎大將軍開府,荊州刺史,假節都督荊、交、廣州諸軍事,封新城郡公。其在江、漢,值王室多難,得專命一方,盡其器能。推誠羣下,厲以公義,簡刑獄,務農桑。每有興發,手書郡國,丁寧款密,故莫不感恱,顛倒奔赴,咸曰「得劉公一紙書,賢於十部從事也」。時帝在長安,命弘得選用宰守。徵士武陵伍朝高尚其事,牙門將皮初有勳江漢,弘上朝為零陵太守,初為襄陽太守。詔書以襄陽顯郡,初資名輕淺,以弘壻夏侯陟為襄陽。弘曰:「夫統天下者當與天下同心,治一國者當與一國推實。吾統荊州十郡,安得十女壻,然後為治哉!」乃表「陟姻親,舊制不得相監臨事,初勳宜見酬」。報聽之,衆益服其公當。廣漢太守辛冉以天子蒙塵,四方雲擾,進從橫計於弘。弘怒斬之,時人莫不稱善。晉諸公贊曰:于時天下雖亂,荊州安全。弘有劉景升保有江漢之志,不附太傅司馬越。越甚銜之。會弘病卒。子璠,北中郎將。 (訳) 「晋陽秋(しんようしゅう)」にいう、 劉弘(りゅうこう)は字を叔和(しゅくか)といい、劉煕(りゅうき)の弟である。 劉弘は晋の世祖(司馬炎)と同い年で 同じ里に居していた事があり、 旧恩を以てたびたび顕位に登った。 劉靖から劉弘に至るまで 世に名声を(むな)しくせず 政治の才覚を有していた。 西晋の末期、 劉弘は車騎大将軍開府(しゃきだいしょうぐんかいふ)、荊州刺史、 仮節都督(かせつととく)荊・交・広州諸軍事となり 新城(しんじょう)郡公に封じられた。 江漢に在るとき 王室は多難に直面していた。 命により一地方の専断権を得ると その能力の限りを尽くした。 目下の者たちには真心を以て接し 公義を厲行して 刑獄(刑罰や裁判)を簡略化し 農桑に務めた。 興発(徴発)があるたびに 手ずから郡国に書を与えて 親密に※丁寧したため (※再三にわたって心配した) 感激し、悦ばぬ者はなく、 顛倒(てんとう)し、奔って(劉弘のもとへ)赴いた。 みな、 「劉公から一通の手紙を得ることは 十部の従事(を派遣する)よりも賢い」 と言った。 当時、帝は長安に在り、劉弘に命を下して 宰守の選抜・起用が可能なようにした。 ※徵士(ちょうし)である武陵(ぶりょう)郡の伍朝(ごちょう)は 生き方が高尚であり、 ※(出仕しなかった隠者) 牙門将の皮初(ひしょ)は江漢にて功績があったため 劉弘は伍朝を零陵(れいりょう)太守に、 皮初を襄陽(じょうよう)太守に任命するよう上奏した。 詔勅には、襄陽は顕郡(重要拠点)であるが 皮初は資質・名声が軽く (相応しくないので) 劉弘の婿の夏侯陟(かこうちょく)を襄陽太守に 任命する旨が書かれていた。 劉弘は言った。 「そもそも天下を統制する者は まさに天下と心を同じくすべきで、 一国を治める者は まさに一国の実力者を 推挙せねばならない。 吾は荊州十郡を統治しているが どうして十人の娘婿を得たあとでなければ 治められぬというのか!」 そこでこのように上表した。 「夏侯陟は姻戚でありまして、 旧制では相監察して事業に臨めません。 皮初の勲功は(むく)われるべきです」 この申し出が聞き入れられた事が報され、 衆人はますます劉弘の公正さと 妥当な判断に帰服するようになった。 広漢(こうかん)太守の辛冉(しんぜん)は 天子の蒙塵(天子が逃げる事)し 四方が雲の如く紛乱している事から 劉弘に※縦横の計略に従うよう進言した。 (※劉弘に晋からの独立を勧めた) 劉弘は怒って辛冉を斬り、 当時の人に賛美せぬ者はなかった。 「晋諸公賛(しんしょこうさん)」にいう、 当時は天下が乱れていたと雖も 荊州は安全であった。 劉弘には、劉景升(りゅうけいしょう)(=劉表と同様)に 江漢(こうかん)を保有する意思があり 太傅の司馬越(しばえつ)に味方しなかった。 司馬越はこれを甚だ憎んだ。 ちょうど劉弘が病気で卒した。 子の劉璠(りゅうはん)は北中郎将である。 (註釈) 「丁寧」のニュアンスが変なので 調べてみたら日本語と意味が違う。 「繰り返し言い含める」的な意味です。 「晋陽秋」では独立の意思0の忠臣で 「晋諸公賛」では 第二の劉表の座を狙う梟雄として 描かれていますね。 どっちが正しいんだろう?? また、劉弘はつい最近触れたばかりの 羊祜(ようこ)から見出された人材でもあります。 言ってる事とかそっくりです。 彼は晋書に列伝があるので いずれ触れたいと思います。 続いて、司馬懿の兄、司馬朗(しばろう)伝やります。
/334ページ

最初のコメントを投稿しよう!

233人が本棚に入れています
本棚に追加