ぱしゃり。

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──頭がぼんやりとしてきた。身体も完全にいうことを利かなくなった。  辺りに人の気配が、家族と医者の存在だけは、辛うじて感じられる。その場に居て欲しくない人がいることに、僅かに安堵する。 ──フィルムの早送りが始まった。もう十数える位には、息絶えるだろう。『オレ』としての人生は、僅か数ヵ月の、とても短いものだった。  今年の始まってすぐ。『おれ』は、一度死んだ。死んで、新しく『オレ』が生まれた。  雪でスリップした車にはねられた、と聞いている。当事者からすれば、突然のことだからよくわからない。ただ、物凄く痛かった、というくらいだ。  以前の『おれ』と、今の『オレ』は、確かに同じ能辺葉という個人だ。けれど、中身がほんの少しだけ違う。 『オレ』には実感がない。記憶喪失、みたいに思い出せないのではなく、確かに今までの人生の経験は、事故の直前までハッキリと思い出せる。  けど、それが自分自身と認識できなくなったのだ。他人の人生の写真集を見せられているようで、それが自らとイコールを結び付けられなくなった。  以前の『おれ』と今の『オレ』は、似ているようで少しだけ違う。能辺葉という人物をよく知る人物から話を聞いても、腑に落ちる感覚がしない。  そして、最悪なことに『オレ』は『おれ』の持っていたタイムリミットだけはキッチリ受け継いでいた。 …だから、オレは少しでも自分がそこにいたと思わせたかった。無駄に粗相を働いたり、柄にもなく金髪に染めたり。  なんとか傷痕を残したかった。自分が不確かで、忘れられることが何よりも怖かった。 …でも、ある日気が付いてしまった。『オレ』ではない『おれ』が、瑠璃に恋をしていたことを。  あの日死んだ『おれ』が、『オレ』に残した記録がどんなものだったのかを、漸く理解できた。  あの子は、『オレ』と同じように、自分が不確かだった。目の前にあるものでさえ、本物であると確信できない。  だから『おれ』は瑠璃のそばにいた。そんなことはないよ、と言い続ける為に。  例え、彼女との間に甘い関係がなくとも。決して振り返ってはくれず、報われたとしても先がないと理解していたとしても。 ──『オレ』は、最期まで『おれ』を演じきろうと決めた。親友を二度も喪っていたなんて、そんなのは残酷すぎる。 …そして何よりも。もういない『おれ』の気持ちを、裏切ってしまうようだったから。  必ず先に行ってしまう自分の存在が、瑠璃の疵になってしまわないように、この想いに鍵をしてしまおう。 …これでいい。ふと浮かんでくるような、ささやかな思い出であればいい。  彼女が撮る写真のような、形あって目に見えるものではない。こんなこともあったね、という覚え書きのような、薄らいでいく記憶。  胸の奥が染みるような、痛みの伴うものであってはいけない。大人になった後、アルバムを捲って、微笑ましいと思えるような、そんな思い出であろう。 …口元が、僅かに緩む。騙しきってやった、という誇らしさと、自らの滑稽さに。 …それと、早送りのフィルムの最後に浮かんだ一枚の写真の、突然撮られて呆気に取られた、瑠璃の顔に、可笑しくなったのだ。
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