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「あれが、元締の恩人か」  そう呟いたのは、二人とも元の姿に戻り、蕎麦に箸をつけようとしたときだった。安兵衛は箸で盛り蕎麦を探るようにしながら、少しだけ逡巡した。 「私が昔、軽業師たちの頭領をしていたのは、知っていますね?」  早雲はただ頷き、蕎麦を一口啜った。 「みんな、酷い雇い主の下でこき使われていました。それを引き抜いて、私の一座に入らせたんです。一芸に秀でた人ってのは、どうも利口に生きるのが苦手なようで。損な仕事ばかりさせられてるのを、見てられなかった」 「知ってるよ。そうして集まった連中と、いつしか裏の仕事もやるようになったんだろう?」 「ええ。いわば、[わたりや]の原形ですな。表では旅芸人の一座として興業をし、その裏では彼らの業を表沙汰にはできない仕事に使ってもらいました。殺しを引き受けるようになるには、少し時間がかかりましたがね」  それから安兵衛は、一気に蕎麦を三度も啜った。懐かしむような顔を隠すかのように、荒っぽく咀嚼する。落ち着いてから、 「ただ、表の稼業で問題が起きました。もう、三十年は前になりますか。江戸に訪れたとき、興業の許可が下りなかったのです。私が軽業師を引き抜いた悪徳座長が逆恨みして、裏で諸方に手を回したんでしょうな。  さて、興業ができなければ食べていけない。そのときにお世話になったのが、当時すでに[村雨屋]の座長として一座をまとめていた宗右衛門さんです。あの方は私たちに同情してくださり、芝居や稽古がないとき、[村雨屋]の芝居小屋で興行することを許してくださった。おかげで私は、一座のみんなを路頭に迷わせることなく済んだんです」  語る声に、混じりけのない感情が含まれている。長い間、裏の世界で暗躍してきた人間が、まるで子どものように心を露わにしている。早雲にはそれがおかしく、そして少し羨ましくもあった。 「俺には関わりのないことの気もするけど、そのとき元締が飢え死にでもしてたら、今の俺たちはないわけだしな。手は尽くすよ」 「頼みましたよ」  日が沈みかけてきた。騒々しくさえ思えた初夏の熱気が消え失せ、今はどこかに寂寥感を漂わせた冷たい風が吹き込んでくる。  西の空に、茜色が滲み始めていた。
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