第26話 木星を司る者

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 サツキが去ったその夜は、とても複雑な気持ちでぼくの胸は落ち着かなかった。じっとしていることが難しい。どうにも胃が、誤って熱した小石を飲み込んでしまったような感じになっているのだ。それで思い余ってふらふらとターミナル駅まで足を延ばしたものの、改札を出たところで唐突に二の足を踏み、散々迷った挙句にぼくは近くのバーに飛び込んだ。  ゴンでも迫先輩でもいい、話を聞いてもらえば済むのだろう。そう思う。  けれども周りの大人たちに甘えてばかりの自分の不甲斐なさをいつも以上に感じてしまっていたぼくは、この夜ばかりはそのどちらをも頼ることができなかったのだ。  創意工夫。  作業の効率化と時間の短縮。  ……ぼくは何度、そのことをあの男から言われてきただろう。あの男、廣島(ひろしま)(やすし)に。 ──どうして勝手に作業を進めた? ──まだ出来ていないのか? ──どうして先方と調整しなかった? ──スケジュールは把握していたのか? ──簡単なことだぞ? ──これくらいはできるだろう? ──そんなこともできないのか? ──おまえは、社会人としての責任感が足りないな。  確かにあの大魔王とは色々とあった。一つ一つの指摘を切り出して抜き出せば、角度によってはあの男が一方的にぼくを責めているようにも見えたことだろう。けれども前後の会話やその時の状況をよくよく吟味して思い返せば、その指摘のどれもが至極まっとうなものばかりで、ただ単にぼくが勝手に打ちのめされて転がり落ちていっただけのことだと嫌でも気付かされてしまう。  そもそもは、ぼくが誰の承諾も取らずに勝手に仕様を変えてしまったのが悪いのだ。  間違ったことを言われたわけではない。  それなのにあの時ぼくは、ぼく自身の何が悪かったのかをきちんと理解し反省したろうか。クライアントと揉めたことで気が動転して……最初に心を閉じたのはぼくの方だったじゃないか。白状してしまえば煩わしいと思ったのだ。どうしてここまで叱られる必要があるのかわからなかった。だって、あの時は良いことをしたつもりだったから。ぼくはわかろうともしなかったんだ。最初のあの時点ですでにぼくは理解することから逃げていた。  つまりは、そうだ。ぼくは仕事に対して舐めた気持ちでいたってことじゃないか。相手の迷惑も顧みず自分の満足を優先した挙句、その「余計なこと」で発生するコストのことだって考えもしなかった。  仕事に対して誇りを持っていたら、そんななことはしなかっただろう。甘かったんだ。白状してしまえば、ぼくはそれまで仕事を楽しいと思ったこともない。仕事なんて給料をもらうための手段でしかないと思っていた。  納期までに仕事を済ませて、そつなく回していけば問題ないと思っていたんだ。余計なことをして失敗して以降は、ますますそんな風に考えるようになった。言われたことを言われた通りにやっていればいいと思っていた。  結局のところ、ぼくはその程度でしかなかったんだ。迫先輩の言いたかったことが今ならわかる。そんなのは機械だってできる仕事。ぼくである必要はない。代わりがいくらでも見つかるレベルの仕事に、これまでのぼくは漫然としがみつこうとしてきたってわけだ。  ぼくだけのオリジナル。  考え、生み出し、喜ばれることの楽しさ。  そんなことに今頃気が付くなんて、遅すぎるんじゃないか? しかもサツキに言われるまで気付きもしなっかなかったなんて、ぼくはなんて間抜けなんだろう。  もしもあの当時、大魔王との関係をこじらせる前にぼくがそれに気づき、真摯に反省し、方々に頭を下げていたならば、あの男はぼくを許し、正しく導いてくれたんじゃないだろうか。そんなことさえ思った。きっとぼくは自分の手でそれを握りつぶしたんだ。そして、結果あの男に見捨てられ、ぐるりと迷走し、サツキに気付かされてようやく振出しに戻ってきた。一体どれほどの時間をぼくは無駄にしてしまったのか。 「情け、ないなぁ……」  嘲笑が漏れて、漏れ出た分を補おうとぼくはハイボールを一気飲みした。もともと酒の弱さが心の弱りと相まって、呆気ないほど早く酔いが回っていく。  それから目の前の窓を見た。外の通りが見えるカウンター席だ。  街ゆく人々を眺めていると、酔いも手伝って世界の全部がふらふらと揺れ動いているようだった。  目の前を通り過ぎていく、名も知らぬたくさんの人々。  ぼくとは永遠に交わることのない人々。  妙な気分だった。街ゆく人々はぼくの存在を知らず、ぼくが思い悩んでいることも知らない。ぼくという溺れかけた点を見つけて線で繋いでくれる人はここには誰もいない。今ここにいるぼくは、確かな孤独の中にいる。孤独……。 「ひとりで食べるご飯より、ふたりで食べるご飯、か」  サツキの言葉を思い出し、またしても苦笑が洩れた。そりゃあ、誰かが一緒だったら楽しいだろうさ。安心するだろうさ。幸せだろうさ。でも誰が、こんな間抜けな男の手を握ってくれるっていうんだ?  ……と、そんなことを思って再び自嘲した時、ぼくは遠くにエリカさんの姿を見つけたような気がした。まずい、幻覚が見え始めている、酔いすぎた。  頭を振ると、くらくら、ぐるぐると世界が回った。ぼくはこめかみを押さえて再びガラスの先を見つめた。あろうことか幻覚は先程より大きくなっている。しかもガラス越しに手を添え、ぼくを見つめてきた。  ……?  首を傾げ、目をこすった。再び目を開けると幻覚は消えていてほっとした。しかし、 「こんな時にエリカさんのことを思い出すとか、どんだけ女々しんだ」  と呟いたら、今度はその幻覚が真横に見えた。これはもう重症だと思いながら、ぼくはまじまじとその幻覚を見つめ、溜息をついた。  本当に美人だ。  迫先輩の娘さんとは思えない。ぼくとはどう考えても釣り合わない。まあ、とっくに嫌われてしまっても、いるわけだけど……ははは。情けない思いがこみ上げ、苦笑を漏らして呟いた。 「でも、好きなんだ」  誰に聞かれたって構うもんか。もう一度呟いた。「ぼくはエリカさんのことが好きなんだ」  すると……あろうことか幻覚が答えた。 「私もですよ」と。  …………。  …………。  …………。  ん? 「え?」 「だから」と、幻覚が呆れたような顔で言う。「酔ってるんですか、田中さん?」  酔ってる。  酔ってるとも。  うん、酔ってる。  …………。  酔ってる場合じゃない! とばかりに酔いが一気に醒めた、気がした。いやいや……。え? は? え? ……今、ぼくは……何を聞いた? ……幻聴? 「え、エリカさん!」  周回遅れでぼくの心臓が飛び上がった。 「はい、なんですか?」  エリカさんは眉を(ひそ)めながら後ろを振り返って、「同じものください」と言う。  同じもの?  ぼくはびっくりして自分の前に置かれた空っぽのグラスを凝視した。 「水……」ぼくは悲鳴を上げていた。「水、ください!」  すぐに水ください!  立ち上がりかけたぼくを座らせてエリカさんが笑う。「酔ってますよね?」  酔ってます! 「ぼく……ぼく……」  混乱する頭でとにかく考えた。落ち着け。落ち着け!  どうしよう! 「今、とんでもないこと、言いました!」 「……ですね」と、エリカさんが静かに言う。「お酒の勢いですかね?」  あわわわ! 「あの、その……」 「なんですか」と、エリカさんは素っ気ない。「冗談だったのですか?」 「違います!」  慌てて言って、その発言にぼくはさらに慌てた。「違いますが、違います!」 「どっちなんですか」 「ああ」  ぼくは手で顔を覆い、呻いた。「どうしよう」 「どうしてくれるんです」 「どうしたらいいですか」 「田中さん!」 「はい!」またしてもぼくは飛び上がった。 「はっきりしていただけますか?」 「はっきり……」何を?「あの、ぼくは……」 「田中さん!」 「はい!」  ああ! どうしよう! 「エリカさん、あの、ぼく、あの……」日本語! ああ、どうしてこういう時にぼくの日本語はいつも行方不明になるんだ!  狼狽えていたらお冷を渡された。 「とりあえず、飲んでくださいよ」 「はい!」  ぼくはグラスごと飲み干すほどの勢いで水を(あお)った。冷たさで頭が冴えると同時に血の気も引いた。 「怒ってます?」 「何をですか」 「ぼくが今、失礼なことを言ったから」 「何が失礼だったのですか」 「怒ってますよね?」  泣きそうな顔でぼくはエリカさんに許しを請うように呻いた。「ごめんなさい……」 「だから、何が」と、エリカさんの表情は相変わらず氷のようだ。般若の面だ。「どの発言が失礼だったのですか」 「だから、ぼくが……」ああ、死にたい。今すぐ死にたい。消え失せたい。「好きだなんて、言ったから」 「好きだと失礼なのですか」 「だって、ぼくが、だって、ぼくですよ。ぼくが、そんなことを言ったら……」 「では田中さんは、私のことが嫌いなのですか?」 「とんでもない!」 「では、好きなのですか?」 「そんな、ぼくは、その……」 「どっちなんですか!」 「好きです!」  ぼくは誘導尋問にかけられた哀れな囚人のように叫んでいた。「好きです!」 「だったら、どうして、それが、失礼なのですか」 「エリカさんは、ぼくのことを嫌っているじゃないですか!」 「私が?」エリカさんが声を張り上げる。「いつ、私がそのようなことを言ったのですか」 「言ったじゃないですか!」ぼくも半ばやけくそだった。「ぼくを見ていると苛々するのでしょ!」  ああ、とエリカさんが呻く。「そうですよ、苛々しますよ!」 「ほら、ぼくのこと嫌いじゃないですか!」 「苛々するけど嫌いじゃありません!」 「……え?」  ぼくは仰け反った。「どういう意味ですか?」 「どういう意味も何も……」呆れた、という顔でエリカさんがぼくを見る。「この店で私が最初になんて言ったか、聞いていなかったのですか?」 「聞いてましたよ! 聞いてました! エリカさんは……」そこまで自棄っぱちで言い捨てたぼくは、絶句した。「なんて?」 「聞いてなかったのですね?」 「聞いてました……」ぼくは自分の顔をどう作ったらいいのかわからなくなった。この場合どんな顔をしているべきなんだ? 「いや、そんなはず……」 「何が」 「だって、エリカさんはぼくのことが嫌いなんだ」 「……またそこに戻るんですね」 「エリカさん、ぼくのことが好きなんですか?」 「今度は随分ストレートですね」 「エリカさん、ぼくのこと、苛々するんですよね?」 「ああ、この、唐変木!」  そう言ったエリカさんは口調とは対称的に笑顔だった。唐変木のぼくは事態が飲みこめずにあんぐりと口を開け、エリカさんを見つめることしかできずにいる。 「ああ、田中さん、苛々しますよ。本当に苛々します」エリカさんは笑いながらぼくに言った。「苛々するくらい、放っておけないんですよ! もどかしくて!」 「…………」 「不器用で間抜けな田中さんのことが、私は気になって仕方ないんです! 私はあなたのこと、私が小学生の時からずっと見てきたんですよ? 知ってましたか? 見れば見るほど守ってあげたくなるんです! 母性本能がくすぐられるんです!」 「…………」 「もう、こんなこと、二度と言いませんからね! あんぽんたん!」  そこまで言われても、ぼくはエリカさんを黙って見つめることしかできなかった。後になって思うに、この日のぼくは今まで生きてきた人生の中でもっとも惨めで哀れで、間抜けで、そして幸せな男だった。  エリカさんが困ったような顔をする。 「何か言ったらどうですか?」 「ぼく、エリカさんことが好きです」 「もう、いいですよ。聞きました」 「このまま好きでいても、いいんですか?」  エリカさんはけらけらと笑った。「そうですね、ずっと私のこと、好きでいてくれませんか?」 「ハグしていいですか?」 「今度は大胆に」なりましたね……。  ぼくはエリカさんに最後まで言わさなかった。気が付くと力いっぱいエリカさんのことを抱きしめていた。  たぶんこの夜のぼくたちは、店にとってはとんでもなく迷惑な客だったに違いない。
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