綾瀬美穂

1/1
前へ
/11ページ
次へ

綾瀬美穂

 彼女は細身で色白の美人。顎の辺りにある小さな黒子(ほくろ)がチャームポイントである。同級生の男子の誰もが彼女と付き合いたがっていた。  そんな学年で人気者の彼女がある日、突然俺に付き合ってくれと告白してきた。なぜ俺にという疑問はあった。彼女が言うには俺の事を入学式で初めて見て運命的なものを感じたそうだ。ビビッときた、まさに一目ぼれだったそうである。生まれてこの方そのようなことを言われた事など無かったのだが、少なからず俺も彼女に好意を持っていたことは否めなかった。正直言うと入学式の日に、ふと見た彼女の瞳に惹かれて目を離せなくなり日々思いは強くなっていた。  当然、俺は彼女からのその申し出を承諾して、晴れて二人は恋人同士となったわけだ。  月日が経つのは早いもので、俺達二人が付き合いはじめてからすでに半年近くの日々が経過していた。   二人は特に大きなケンカをする事もなく毎日を快適に仲良くごく普通の恋人達と同じように過ごしている。というよりは生まれる前からずっと結ばれる運命であったのではないかと思わせるほどの感覚であった。俺達は、同じ高校の二年生で同じ教室で学ぶ。所謂(いわゆる)、クラスメイトというやつである。  綾瀬(あやせ)美穂(みほ)。それが彼女の名前。彼女はとても積極的で、二人で出掛けた時や学校の帰りなどの別れ際には必ずキスを求めてくる。人の目も憚らずに突然腕を組んできたりスキンシップの表現が普通の女の子よりかなり大らかであった。帰国子女かなにかなのかと思ったが、海外で生活した経験は全くないそうである。彼女のその行動が時には恥ずかしく、時には嬉しく感じたものだ。  しかし、その日は突然訪れてしまった。 少し前の俺であれば、普通の高校生男子らしくその要求に躊躇(ちゅうちょ)する事なく前のめり気味に応じていたのだが、ある日を境に彼女のその行動に抵抗を感じてしまうようになってしまった。罪悪感、背徳心、色々な感情が俺の頭の中を駆け巡る。彼女とこんなことをしてはいけない。彼女と恋人になってはいけないのだ。  俺は思い出してしまったのだ。  あの記憶を……。彼女達と過ごしたあの日々を・・・・・・。  いつもの代わり映えの無い日常。母親が留守の日を見計らって家に遊びに来ないかと彼女からの誘いがあった。  彼女のお母さんが、務めている高校で泊りがけ二泊三日の旅行があり、引率という形で家を留守にする事になったそうだ。ちなみに彼女の母親は私立高等学校の社会科の教師なのだそうだ。俺は一抹の罪悪感と期待感を覚えながらも二つ返事で承諾して彼女の家にお邪魔することになった。 「お邪魔します」初めて訪れる彼女の家に恐縮しながら誰にするでもなく挨拶をする。返答はもちろん返ってはこなかった。静まり返った家の雰囲気と反比例するかのように胸の鼓動が激しくなった。その音が外に聞こえるのではないかと思うぐらいであった。 「そんなに緊張しないで、誰もいないから遠慮しないでね。直也君」美穂は俺が緊張している様子が面白かったのかニヤニヤしている。その表情はまるで小悪魔のような表情であった。わざわざ名を呼ばれた事で、自分の頬が赤くなっていると自覚する。  廊下に背を向けて運動靴脱いでからそれを丁寧に揃えて家の中に上がる。 「こっちよ」言いながら彼女はリビングのほうに誘導していく。「そこに座っていてね」ダイニングテーブルの椅子を指差す。俺は彼女に言われるままに椅子に腰を掛ける。 「紅茶でいいかしら?」美穂はカウンターキッチンの向こう側から声をかけてくる。 「あっ、ああ、紅茶ね・・・・・・、それでいい……」緊張のしすぎでなにがなんだか解らない。俺の家では麦茶やインスタントコーヒーは飲んでも、紅茶などという洒落た品物にはお目にかからない。  緊張からか軽く貧乏揺すりで足が揺れている。ちなみに以前読んだ何かの雑誌で書いていたような気がするのだが、貧乏揺すりは歪んでいる体の矯正になるので良いらしい。  彼女の部屋の中をゆっくりと見回す。綺麗に掃除されたリビング・キッチン。普段から綺麗にしているのか、普段からこのように知れいるのかは解らないが、気持ちいの癒される落ち着いた感じのスペースであった。  ふと、リビングの隣にある和室に設置されているこじんまりしている仏壇が俺の視界にはいる。その仏壇の中には、白黒の男性の遺影が飾られてあった。歳の感じからすると彼女の父親の写真である事は容易に推測できた。 「あっ、そう言えば美穂のお父さんは?」会話が続かず、何気なく言葉が口から出た。そういえば彼女から父親の話を聞いたことがない事を思い出した。 「ああ、言ってなかったかしら。私のお父さんは三年ほど前に交通事故で亡くなったの。飲酒運転していた車に引きずられて……」彼女は少し悲しそうな顔をした。 「そうなんだ……。嫌な事を聞いてゴメン……」そんな壮絶な亡くなり方をしていたとは思いもしなかった。仏壇に遺影が飾られているのであれば、普通に考えればこの世にはすでに居ないと云う事を容易に解るはずである。その配慮のなしに軽い自己嫌悪に陥る。 「ううん、もうだいぶんと昔の話だし……、確かにその時はすごく悲しかったけれど、今はもう大丈夫よ」そう言うと可愛らしいトレイに紅茶を二つ持って向かい側の席に座り、紅茶の入ったティーカップを丁寧に俺の目の前に置いた。 「美味しい紅茶をどうぞ」彼女はニコリとほほ笑む。なんだか聞いたことのあるフレーズだなと思いながらペコリとお辞儀をする。「ありがとう・・・・・・」なぜか緊張でカップを持つ手が微妙に震える。それを彼女に悟られるのが嫌で反対の手で震えを抑える。 「どうしたの?」彼女は平然とした表情で紅茶を口に含んだ。上手に入れられた事を満足したのか少し幸せそうな表情を見せた。 「い、いや、別に何も無いけれど」恥ずかしくて真っ直ぐ彼女の顔を見る事が出来ない。 「変なの」言いながら彼女が優しく微笑んだ。 『あれ、なんだこの感覚は・・・・・・?』彼女との一連の会話を続けている間に、紅茶を一口飲みこんだ。その瞬間に俺の頭の中ではまるで自分が見てきたかのように先ほど彼女が語っていたの光景がフラッシュバックのように流れ込んできた。そのあまりの情報量の多さに俺は一瞬気が遠くなる。  酒を飲む学生達、横断歩道、車、ヘッドライトの光、真理子(まりこ)、美穂、車に引きずられ意識が無くなっていく・・・・・・・、中年の男、いや俺! 「どうしたの、大丈夫?顔が真っ青になっているわよ」美穂が心配そうな顔で俺を見ている。唐突に投げかけられた彼女のその声で現実に引き戻されたような気がする。 「ああ、いや大丈夫だ・・・・・・」言葉とは裏腹に最悪の気分になっていた。病気でもないのにこんなに気分が悪くなったのは初めてであった。 「お前、美穂だよな・・・・・・・」解かりきった事ではあったが確認する。しかし、俺の彼女に対する感情は明らかに変化していた。 「そうよ、何を今さら・・・・・・私よ、美穂よ。本当に大丈夫?」彼女は不思議そうな顔をする。唐突にさっきまで普通に話していた人間から自分の名前を確認されたら訝し気になるのも仕方がない。しかし、俺は彼女の名前を確認せずにはいられなかった。 「・・・・・・」また改めて彼女の家の中を見回す。俺の中では、さきほど紅茶を一口飲むまでの俺と今の彼女を見る俺の感覚が激変していた。そこにあるすべての物に何かしら見た事があるような気になった。冷蔵庫の横に掛かったエプロンの柄、あの皿、収納棚、そしてこのダイニングテーブル。   「このテーブルは彼女と俺が・・・・・・」俺は激しい眩暈に襲われた。そのリビングのテーブルは俺が妻の真理子と二人、結婚した時に買ったものであった。
/11ページ

最初のコメントを投稿しよう!

4人が本棚に入れています
本棚に追加