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とにかくそれからの私はとても忙しかった。何せ、先生の行動を把握し、先回りし、隙を見せた時に、さっと筆箱の中からたった一本のペンを取り出して新しいものと入れ替える。これがなかなかに難しい。先生は案外に忙しそうで、大学の仕事やご家庭の用事で色々とお出かけになる。そんな時にうっかりチャンスを逃したくないので、できるだけついていく。すると、何度か変な表情をした先生に声をかけられた。「あれ? 君、僕の講義に……」そういう時はほうっておいて相手にしない。
そして、最後の講義が始まる1時間ほど前のこと。先生はご自身の部屋にこもられて何やら研究に励まれていた。そこに警備室から呼び出しが入る。先生は素直に応じる。私の願い通り、邪魔なカバンは置いたまま身一つでお出かけになる。だけど部屋の鍵は入念にかけて行った。物騒な世の中だから当然だ。
もちろん警備のふりして電話をかけたのはこの私だ。この手は使いたくなかったのだが仕方ない。兄の本から仕入れた空き巣の技を使って難なく部屋に侵入し、最後の一本のペンを入れ替えた。ミッション・コンプリートだ。晴れ晴れしい気分だった。
落ち着いて講義室の席に着き、先生を待つ。いつもの通り先生が現れて、いつもの通りに講義が始まった。でも、この日の私はいつもと違うのだ。心の底から湧いてくる形容しがたい高揚感がある。睡眠欲なんぞどこにもない。ここ3日ほど最後の仕上げに頭を悩ませ、鍵の練習にも時間を費やし、ほとんど眠っていないのにだ。今日こそ、今日こそ1行たりとも文字らしい文字が書かれていない私の講義ノートに初めての文字が書かれるのだ。ピンクに輝く先生の字が早く見たい。
先生が筆箱からペンを取り出し、キャップを外し、文字を書こうとする。手を止める。残りのペンに手を伸ばす。ふふふ、今更気付いてももう遅いんですよ。
勝ちを確信した私が口元をゆるめたまさにその時だった。
先生の手がジャケットのポケットに滑りこむ。
まさか!
先生はポケットからゆっくりと手を引き出し、その手にはしっかりとマジックペンが握られていた。白板に向かって手が伸び、キャップが外される。それ以上見つめ続ける恐怖に耐えられなくて、私はぎゅっと強く目を閉じる。先生がそのつもりならば私は私のやり方でここから脱出するだけだ。なんせ目を閉じれば0.5秒で眠れるのだから。
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