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 白花(しらはな) 風莉(ふうり)は最後の仕上げに髪を緩く巻き、携帯電話を手に取った。三回ほどのコールのあと、自分の耳のすぐ傍から最愛の人の声がした。電話越しだからか、少しいつもより低く聞こえる。 「今から家を出ますね」 風莉が浮かれた声で言うと、分かった、と彼が優しく笑った。後ろ髪を引かれながらも電話を切る。どうせまた会えるからと自分に言い聞かせて。通話時間はたった数秒。でも、それだけで心は満たされた。今日は彼の家に行く。初めて呼ばれた。想像するだけで頬が紅潮した。  最寄駅からしばらく電車に揺られて、いつも仕事場に行くために降りる駅を三つ乗り過ごした。そこが、風莉の彼の家の最寄り駅だったからだ。知らない土地に足を付けるのは真っ白な積もりたての雪に足跡を自分が初めてつける時のような感覚がある。そんな感覚も、彼の姿が目に入った途端、風莉は簡単に忘れた。 「裕樹さん! 」 三島(みしま) 裕樹(ゆうき)。風莉の職場の先輩兼彼氏だ。三島が風莉の教育係を担当したことで知り合った。ありきたりな出会い。今は三島が出世したことで二人の部署は違うが、連絡を取り合ううちに恋人となった。  風莉はホームで三島を見つけるなり飛びついた。三島は背が高く細身だが、一応男なので、飛びついてきた風莉を軽々と抱き上げる。風莉は意外と男らしい三島が好きでたまらなかった。ひとしきりくっついた後。二人で三島のマンションへと向かった。  二人で歩いていれば時間など一瞬に感じられた。どんな道を通ってきたかもあまり覚えていない。風莉の視界の大半を占めるのは三島裕樹という一人の男だった。気づけば三島のマンションの部屋の前にいた。三島はカチャカチャと鍵を開けている。毎日やっているだろうことなのに何故か手こずっていた。風莉は自分がいるから緊張しているのかと三島のことをいじらしく感じる。  鍵が開き、三島が扉を開けて私を入れる。三島の部屋はあまり片付いてはいなかった。一人暮らしの男の臭いが染みついていた。女などあまり家に入れないのだろう。三島は私の後ろから入り、扉を閉める。金属のこすれる甲高い音が、きいぃと薄く鳴った。その音が徐々に遠ざかって行く。外界が遠ざかって行く音だった。この小さな空間に風莉と三島しかいないという世界。二人だけの密室。そうなるまでの時間がやけにゆっくりに感じた。少しの緊張と胸の高鳴りと、体の奥底の熱が疼く感覚。風莉は自分が女であることをこのとき自覚したのかもしれない。  風莉は容姿端麗だ。高校時代は引く手あまただった。にも拘らず彼女は同級生には誰一人靡かなかった。自分と同い年の男なんて刺激がない、つまらない、性欲のある猿だと思っていた。そんな風莉の欲を満たしたのは当時の担任だった。風莉は高校三年間、担任が変わらなかった。古典文学を大学で専攻したどこにでもいる古典の教師。声が好きだったのだ。(あで)やかで女にしては低くよく通る声。その声に体は震えたのだ。女としてか、それとも別のなにかとしてかはわからない。ただ、声を聞くたびに風莉の体は跳ねた。恋愛対象かと問われても、答えは分からないが、その時から風莉は自分の性に疑問を持っていた。自分は本当に女なのかと。  しかし、今風莉は女として興奮していた。その瞬間、風莉はより三島を愛した。自分を女にしてくれる相手、そんな人はもう一生現れないのではないかとすら思った。恍惚とした顔で、風莉は三島を見つめた。体の疼きは徐々に高まっていく。ああ早く閉ざして。早く、二人だけの世界に行かせて。風莉の心の叫びは三島と重なる。扉が閉まると同時に我慢しきれないというように、三島は風莉に深い口づけを落とした。沼に落ちていくようだった。きっと、私はもう戻れない、風莉の消えかけの理性はそう警告していた。だが、時すでに遅く、風莉は泥の中で、もう溺れていた。  三島は風莉を抱いてベッドまで運ぶと、獣のように風莉に貪った。服を脱がせ、風莉の真っ白な肌があらわになる。いつもと違う三島の様子に風莉は余計に掻き立てられる。三島に触れられるたびに風莉の体は喜びに震えた。三島は何度も風莉の名前を呼んだ。風莉もそれに応えるように三島の名前を呼ぶ。だが三島の目はどこか悲しみが混じっていた。なぜ、喜びに震えるこの瞬間に三島は泣きそうになっているのか、風莉には理解ができなかった。ただ、打ち付けられる快感に身を委ね、三島に愛を刷り込んだ。三島の目は変わらなかった。  一日中そんなことをしていれば、この部屋には男女の臭いが染みつく。自分の存在をこの場所で感じられることに風莉は十分に満足した。深夜寝る前、三島は譫言のように私の名前を呼んで、愛してると言って、強く私の体を抱きしめた。体が折れるかと思うほどに。三島には少し不安定なところがある。風莉はそんな危ない三島も愛おしかった。本当に腕の力は強く、殺されるかもしれないと思い、流石に三島を起こした。すると、三島は驚いたように飛び起き、悪い、と言って風莉から背を向けた。頼もしい背中が、すぐ隣にあると、越えられない厚い壁のように見えた。それから少し待っていたらまたこっちに来てくれるかと風莉は期待したが、一向にそんな気配がなかったので、あきらめて寝てしまった。  風莉は自分が寝てしまったことを一生後悔することになるとは知らずに。   
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