回帰

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回帰

 麻耶は賃貸の部屋を引き払い実家へ戻る準備を始めた。こちらで買った家具家電や衣類、書籍などの全てを売り払い、纏まった現金に替え、ボストンバッグ一つで実家へ帰った。帰ってからは出て行ったままの部屋の掃除と称して、母が使えるであろうもの以外の全てを、その不在を狙って処分換金し、積み立ての預貯金や持ち帰った現金全てと合わせて封筒に入れ、生命保険などの必要書類などと纏めて文机の引き出しに手紙と共にしまった。  身辺整理の全てを終わらせると、母の郷里の海が見たいと独り車で出発した。小型のボストンバッグには、最後まで処分できなかった、お守りとして身に着けていた天然石のブレスレットや、猫の置物、大好きな詩集、そして我が子同様に育てた猫の遺影などを入れていた。着替えなどは一切無かった。何故ならあの美しい海から、湊の待つ海へ向かうつもりだったからだ。手紙には自分は海に帰るとだけ書いた。戻るべき場所を見つけ、そこに戻るのだ。今迄人としての生活を与えてくれた恩を返す事はできないが、どうか元気でと本心から書いた。  実家から二時間半程で着いた民宿のすぐ横は昔から慣れ親しんだ郷里の海になっている。その日の夜も更けた頃、月明かりの中麻耶は一糸纏わぬ姿で浜に出た。ブレスレットの糸を切り、バラバラになった水晶やムーンストーンを丁寧に砂浜に埋める。持って来た他の物も全て砂の中に深く埋めた。ここは昔から麻耶の宝箱だった。それらが朽ちて海に戻れば、きっと人として自らが生きた生涯が昇華された事になる。  宿の部屋には実家への連絡先を書いた手紙を置いた。朝になれば母にも、宿にも事が知れるだろうが、その時に麻耶は既に外洋の海流に乗って姿を消している。誰の手も届かない紺碧の海の彼方へ旅立った後である。  砂浜を真っすぐに波へ向かって歩き、急激に削れ深さを増す海へ飛び込んだ。全身をゆっくりと波打たせ、前に進む。不思議と呼吸は陸にいるよりも楽になった。ぐんぐんと水を掻き分ける速度が増し、その手の指の間には薄い水かきが現れた。皮膚が鱗のように剥がれ落ち、やがて脚は形を無くし下半身は銀鱗に覆われた大きな尾を持つ姿に変化していった。髪は長く伸びて尾びれ近くまで届き、黒潮の流れに乗る頃には、最早人の姿ではなくなっていた。  湊とは違う青い燐光ではなく、麻耶は白銀に近い光を放ち泳いだ。途中様々な生き物に出会い、寄り添うように泳ぐ事もあったが、その殆どが避けるように水底へ消えていった。察するに私達は正に潜むべき存在なのだと知る。  あの島を囲む香りだけを頼りに泳ぎ続け、疲れれば岩礁の陰に潜んで休む。麻耶は本当の自由を手に入れた。陽光を受ける本当の水の青さを知り、月光にさざめく波の艶やかさと、深い渓谷の先に未だ不可侵である領域がある事を知った。そうしてやっと幾日かが経った時に、酷く懐かしい砂浜へと辿り着いた。海が青く光る。無数の黒い眼窩を持つ魚影が乱舞する。麻耶はついに戻って来たのだ。この美しい耀変の島へ。  海中で手を差し伸べると、青い光がその手に纏わりつくようにチリチリと蠢く。私の可愛い子供達。新鮮な幾体もの人肉はさぞ美味かった事だろう。あの日生まれ出た我が子達は、今迄散々に麻耶の精神を喰い尽した男達を生きたまま食んだ。見た事も無い青い光に、己の肉や骨が分解されていくのは、どれ程の恐怖であり、また無念であっただろうか。暗闇で流れ出る血液や体液の濃さも知らぬまま、意識を無くすまでの時間は、永遠にも似た地獄だったに違いない。  風の吹く砂浜へ波間から立ち上がると、鱗や白銀に輝く身体は砂のようにサラサラと流れ、以前の人の姿に戻った。裸で海に入った筈だが、完全に陸に上がると、ここに訪れた時と同じリネンのシャツにジーンズという姿に変わっていた。そして砂浜の先には、初めて出会った時のように湊が佇んでいる。 「おかえり、マヤ」  伸ばされた手を取ると、自分が人として生きた記憶は呆れるほど簡単に霧散していった。 「私の妻、そして一族の女王。人としての世界はさぞ窮屈だっただろう」  湊は柔らかくその背を抱く。 「ええ、人と共存できるかと考えたのは間違いだった。この世界はもう救えない」  砂浜を歩きながら、コテージに灯りが付いている事に気が付いた。 「お客様?」 「ああ、早めに会社勤めをリタイヤされたご夫婦だよ。ヨットで日本中を回っているらしい。ここへは偶然辿り着いて、食料の補給などは別の港をお勧めしたんだが、どうしても一泊させて欲しいというから仕方なく」  含みのある笑いに、マヤは答えた。 「それは楽しみだこと」 「妻がもうすぐ帰って来ると伝えてある」 「盛大にお迎えして差し上げましょう」  二人は肩を抱き、寄り添いながらコテージに向かって歩き始めた。木々が騒めく。さあおいで。風に混じり囁く声がする。   この場所は人と魔の存在が交錯する場所だ。けれど民主主義という民意の多数決社会が台頭するにつれ、その存在は儚く、真実を知るあの漁師のようにいとも簡単に切り捨てられる。だからこそ真実は風化する。夜を昼に変えるような灯りをともし続ける世界の裏に潜む存在は忘れ去られ、不可解な事故は一番簡単な折り合いの着けやすい理由で片付けられる。最も疎むべき社会制度が生み出した歪が、私達を生かす糧となる。その事実に気付いた時に、人は一体何ができるのだろうか。元は誰もが持っていた感覚を捨て、生物として生きる力を無くした者達に待っているものは何なのか。無関心という歪が増え続ける事で更に歪は勢力を増し、その闇に蠢く魔の存在は増え続け人の命を削る。  マヤは笑う。己が子が腹を空かせていると。波が手を伸ばすように砂浜を駆け上がる。饗宴が始まろうとしている。
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