海に潜むもの

1/1
33人が本棚に入れています
本棚に追加
/7ページ

海に潜むもの

 麻耶は食事までの時間に風呂に入ろうと準備をして部屋を出た。同じくして他の部屋からもパラパラと人が出て来る。皆考える事は同じ様だった。さして言葉を交わす事もなく階下に移動する。表から見れば通常の二階建ての建物に見えるが、裏側は丘に添って下がる形になっており、半地下という様相だった。女湯の脱衣場から浴室へ入ると、そう大きくは無いが、確かに水平線が一面に広がる景色があった。陽が落ちた後の淡い紅色が残る水平線は藍色に滲み、刻一刻と色を変える。窓際に寄り、湯に浸かりながらゆったりと海面を眺めると、波間にかすかに青く光り輝くものが見えた。海ほたるだろうか。    海ほたるは甲殻類の仲間で海底に生息し、魚の死骸などを餌にする海の掃除屋である。同類に思われがちな夜光虫とは生物的に分類が違い、夜光虫は海洋性プランクトンとして海面を漂流するもので、大量に発生すれば赤潮となる厄介者とされている。しかしいずれも死肉や弱った生物に取り付くという意味では同じ様に思われた。誰かの小説で、殺人の証拠となる海底に沈む死体が、夜光虫の光で明らかになるというものがあった気がする。海底で微生物に喰い散らかされる腐乱死体とは裏腹に、青白く光を放ち饗宴を祝う蟲達の美しさが余りにも幻想的で、もし自分が命を落とすのならば、郷里の美しい海で生きたままその光に包まれたいと思った。そしてそれは今でも変わっていない。    辛い事があれば麻耶は決まって海風に当たりに行く。今はもう遠くなった郷里とはかけ離れた汚れた海でも、僅かに残る純粋な海水の香りを求めて海辺に立つ。この会社に入ってそれは回数を増していた。中途採用の面接時では経理担当、及び簡単な営業内勤補佐とあった。しかし蓋を開けてみれば、内勤業務が大半を占めていた。仕事に慣れれば慣れる程その負担は増えた。見積を出し、その数字について担当の営業本人からその意図を問われる事もあった。他にも仕入れ処理、発送の指示や商品引取の確認、納品書の打ち出しなど、それが一段落してからようやく経理の仕事であったが、その頃には他の社員は帰社していた。もう一人内勤の上司が居るには居たが、彼が何をしているのかも分からなかったし、また本人も教えようとはしなかった。締日だけは内勤業務は免除されたが、どれ程忙しくとも、経理については当然ながら誰からも補佐を貰えなかった。  ある時営業から大至急の見積りが必要だと懇願され、総合商社に掛け合い、至急仕切値を出して貰えるよう頼んだが、メーカー側が既に帰社している為、本日中の回答が出来ないとの返答があった。慌ててその旨を営業に伝えるべく電話をすると、周囲は騒々しく食器がガチャガチャとなるような音が響いている。今どこにいるのかと聞くと、同僚たちと飲んでいると平然と答えた。出ないなら週明けにでも作って出してくれと呂律の回らない口調で言われ、麻耶は何も言わず電話を切った。週末の夜7時過ぎの事である。経理の仕事はそこからだった。その日友人との約束は反故になった。同じ事はその後も何回か続いた。  雑談さえする暇がない中で、麻耶への人間的評価は見る間に下がって行った。元々会社に入った時から嫌われているのは分かっていた。腹を割らず、表情を変えず、群れる事無くただ言われたまま黙々と机に向かう。さぞかし気味が悪く後ろめたい事であろう。無意識ではあるが、麻耶には凝視癖があった。それも拍車をかける要因だったはずだ。  酒の席を一度断ると、その後忘年会や新年会、暑気払いなどの全てに呼ばれなくなった。社長自身が口止めをしたと、直属の営業はわざわざそれをその都度教えに来た。今回社員旅行に呼ばれたのは、決算で思った以上に利益が上がっていたからだろう。友人は明らかなブラック企業だと言い、辞める事を進めたが、麻耶はいっその事行くべきところまで行って、命と引き換えに会社を堕とす事も考えた。だがそれをしたところで、この会社がまともになるかと問われれば否と答えるしかないのが現実である。  一社会の中において一人の力は余りにも無力で惨めなだけだった。それにこの民主主義という多数決社会で、麻耶は恐らく最も少数派として生きる人種だと自覚していた。多数派に入れなければ、その本人が悪であるという理不尽な社会で、麻耶に味方する人間はまずいない。結局は無駄死にであると分かっていて命を削る必要性は皆無である。  同じ死ぬならば海の糧に。幼い頃から思い続けた意識が今回の旅行の参加を決めた事は確かだ。実際本気で自死を考えて参加した訳ではない。ただ美しい海が見たかった。それだけの事である。しかし心のどこかに己の運命がここで途切れる事を願う自身がいた事も全くの嘘とは言い切れなかった。  どこに行っても、何をしても自分には居場所が無かった。何を考えているのか分からないと両親にも気味悪がられる事は多く、実の父は病死する前に、家族に迷惑をかけるなという言葉を遺した。既に冷たくなり始めた手の感触は、未だこの手に棘を残すようにその感触を失わない。またその言葉を放った父に対しての憎悪は、確実に麻耶の精神の半分を砕いた。  麻耶は更に海風を求める。大波に攫われ海底で揺蕩うままに息絶える事を望む。目の端で青白い光が瞬く。この海にはきっといるのだ。新しい血肉を必要とする存在が。  脱衣場から出ると、主の湊が階段の先に待っていた。相変わらず無表情だ。 「何か……?」 「お食事の準備が整いましたので……長く入られていたようなのでご気分でも悪いのかと」 「大丈夫です。皆さんもうお揃いですか?」 「いいえ、夜釣りに出られた方がいらっしゃいます。もうそろそろお戻りに」  会話は淡々と素っ気なく進んだ。だが麻耶にはその業務的なやり取りの方が心地良かった。感情も何も無い在り来たりのやり取り。だが麻耶はこの湊という男にどこか違和感を覚えずにいられなかった。  
/7ページ

最初のコメントを投稿しよう!