青の王

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青の王

 湊は静かに麻耶の手を取り、断崖の先に向かって歩き始めた。ぐるりと縁を回る様に歩くと、トンネルの左側には岩場が広がっていた。湊は麻耶の背を抱くようにしてその岩場の奥へ進み、少しずつ下り始めた。足元に白く砕ける波飛沫が近付いて来る。既にどこをどう歩いているのかさえ分からない。そこはもうランタンの光すらおぼつかない、深い闇に染められた岸壁の岩場だった。海面の奥深く、水底らしき場所にぼうっと青い光が集まっている。群生した何かが集まり、その視線が重なり合って発光しているのか、それは確かに意思のある眼差しのように見えた。背筋が総毛立つ。その意思は何に向けられているものか、麻耶は今更ながら恐怖と言うものを感じた。 「もう一度聞きます。この海を知りたいですか」 「自分で確かめた方が良いと言ったのは貴方の方です」 「強制はしていません。ですが後悔するかもしれませんよ」  言いながらも断ってくれと言う様子は無い。それにこの場で逃げようとしても、背を向けた途端、後ろから押されればそれで終いだ。しかし湊は突き放す事も、かと言って追い狙う様子も見せず、ただ麻耶の言葉を待っている。 「私の後悔は……この世に生まれた事です」  湊は黙ったままだ。 「連れて行ってもらえませんか。あの群れの中に」  そして私を塵に返して下さい。続けようとした言葉は飲み込んだ。 「分かりました」  湊は静かに答えた。その思念すら聞いているような表情だった。湊は静かに近寄り、包む様に麻耶を抱き締めた。 「恐ろしくはありません。誰も貴方を傷つけない。全てを私に預けて下さい」  そう言った瞬間、湊は麻耶を抱いたまま横倒しに闇色の波間へ落ちた。音が消える。ごぼごぼという気泡が纏わりつくような感覚の後には、光すら届かぬ闇の中で、何かに引かれるように沈む気配だけがあった。息を溜める暇も無かったので、呼吸は直ぐに苦しくなった。だが今更助けてくれと言えるはずも無い。不意に唇に柔らかいものが当たる。それが湊の唇だと気付いたのは、こじ開けるように差し入れられた舌と同時に大量の酸素が胸に流れ込んだからだ。薄目を開けて見た湊の瞳は、やはり耀変のように輝く青い光彩に包まれた漆黒の洞穴のようだった。麻耶の頬を包む両手に触れると、氷のように冷たい手の指の間には水かきがあった。やがて辺りが青い光で包まれると、その首に数本の亀裂が入りサメのエラのように開閉を繰り返しているのが見えた。髪は海藻のように縺れ合って長く伸び、その肢体は玉虫色の光を帯びてゆっくりとうねる。そして波打つ肢体のその先は燐光を放つ鱗に覆われ、群青に輝く大きな魚の尾があった。同じ燐光を纏う小さな魚影が、はっきりとした姿を見せないまま、二人を取り囲む様にけたたましく行き交っている。湊はこの者達の唯一の王なのだろう。既に異形と化した湊の姿を見ても、麻耶は恐怖を感じなかった。青を纏う耀変の王はただ美しく、呼吸を介して彼と繋がる事は、麻耶にとって高揚感すら齎すものだった。    湊は麻耶に新鮮な酸素を与えると同時に、その口内を唇と下で蹂躙した。歯列をなぞり、舌を吸い絡ませる。たまらずに吐息を漏らすように気泡が吐き出されると、直ぐ様またその唇を捉えられた。鼻から水が入り、余りの苦しさに見悶えしても、湊は海面へ近付く事を許さなかった。元々漆黒の水中で上下の間隔さえ掴めない無重力にも似た感覚の中、二人はせめぎ合う様に縺れ合い、自然とゆったりとした回転を始めていた。麻耶の頬を捉え空気を送り続ける湊の二の腕を掴んで硬直していた腕は、次第に弛緩してその背をなぞり、冷たい肌を合わせるように自らかき抱く。湊は麻耶の腰から臀部に掛けて撫でるように左手を下すと、ゆっくりとその左脚の膝裏を抱え上げた。何が起きるかは分かっていた。やがて冷たく長い棒のような器官が、麻耶の下着の脇からその体内にゆっくりと差し込まれてくる。海中をゆっくりと漂いうねる動きによって器官の抜き差しが始まる。音も光も消えた世界で、悠然と奥の奥を突き上げられる感覚は、身体を縦に突き抜けるような激しい快楽を与えた。麻耶は仰け反り、大きく息を吐き出した。手は既に投げ出され、夢で見た海中に漂う花のようにゆらゆらと揺れる。その後頭部を抑えるように唇を繋げながら、湊は長い間律動を繰り返し、やがてぬるりという感覚と共に何かを胎内に産み付けた。更に突き上げを増す律動と共に、目の端でちかちかと青い光が激しく瞬き始める。まるで歓喜しているような光の渦に包まれ、麻耶は自ら湊の腰に脚を巻き付け、縋りつくようにその唇を求めた。やがて腰を抱く湊の身体がぶるりと震えると、その胎内に放たれる大量の滑る液体を感じた。ぱちんという何かが弾けるような感覚と共に、自らの胎内で互いの体液が混じり合う。麻耶はびくびくと痙攣し、目の前が白い光と無数の気泡に包まれるのを見た。やがて蠢く器官がゆっくりと抜き取られると、麻耶の秘部からはまるで焼き付けた銀箔が流れ落ちるように、鈍い光を纏った何かが次々と海中に放たれる。その光の群れは一旦麻耶を取り巻き、全身のあちこちに吸い付くように青い光を放つと、あっという間に水底へ姿を消していった。ぼうと青い光が足元から照らされる。目の前の男は異形ではなく、最初に会ったコテージの主へと戻っていた。麻耶の意識はそこで途切れた。    気が付くと麻耶は最初に眠りに落ちたまま、コテージの部屋のベッド上にいた。時計を見ると午前五時。外はまだ薄暗い。僅かに息を止め、思い切って布団を捲ると、何も変わった事は無かった。生々しい程に妖しい夢だったと思う。身体を起こすと睡眠薬のせいか酷い倦怠感があった。果たして本当に夢だったのか。しかしコテージの寝間着は畳まれたままドレッサーに置かれており、寝る前と何ら変化はない。だがふと耳を澄ますと、階下で人の話し声が聞こえた。明らかに狼狽を思わせる声音に、麻耶は急いで寝間着だけを羽織って廊下へ飛び出した。階段からエントランスを見ると、釣りに出たらしきうちの二人の社員が青ざめた顔色で玄関に座り込み、何かを叫んでいた。社長と湊がそれぞれの話を聞いている様子だったが、恐怖に取り付かれたかのように口々に話す内容は全く意味が分からなかった。 「急に引きずり込まれたんです」 「すぐ横に居たのに」  営業達は懇願するように叫び続けた。 「海が青く光って、そしたら冷たい手が」  言いながら一人の営業が自らの足首を見せた。麻耶は息を呑んだ。そこには水かきのある手形がくっきりと青黒く刻まれていた。 「誰が落ちたんや、あんた警察に連絡してくれ」 「既に連絡しております。海に落ちた方は何人ですか?」 「二人……二人です。僕も落ちましたけど何とか上に上がって……」  言いながら一人の営業が麻耶の方を見上げた。その直後劈くような悲鳴が聞こえた。営業は振り払うように麻耶に向かって手を振り続ける。訳が分からなかった。社長は怪訝そうにこちらを見たが、さして興味も無さそうにまた営業へ向き直った。ただ湊だけが麻耶を見ていた。最初と変わらずに何の感情も無い瞳で。そしてその瞳の端は鈍色に光っていた。  
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