呼ぶ声

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呼ぶ声

 エントランスへ行くと、既に同じ寝間着に着替えた面々が掘り炬燵式のテーブルを囲んでいた。特に席を指定される事も無かったので、勝手に一番下座へ着いた。時を同じくして、釣竿を持った営業組二人が玄関から入って来た。 「何か釣れたか」 「いや、意外に波が強くて。引きはあったんですけど」 「夕食が一品減ったろうが」  わやわやと交わされる会話を、まるでテレビの画面を見つめるように眺めている。そもそもこの会社自体皆が一致団結している訳ではないのだ。互いが居ない相手の悪口を言い、面と向かえばさも仲が良いように振る舞う。それが社会人としてのマナーだと言われればそれまでだが、それに付き合う程の要領の良さは生憎持ち合わせていなかった。元々感情に乏しい人間だ。嫌われていると分かっている人間達にそのマナーを発動するのは尚更の事無理な話だった。    皆が席に着き、ようやく乾杯の音頭が取られる。麻耶はビールを一口飲んだだけで、あとはウーロン茶に切り替えた。  食事はとても一人で用意したとは思われぬ程凝った料理が並び、新鮮な刺身盛りやアワビの肝ソースのステーキなど海鮮を生かした島ならではのものだった。  麻耶は話を聞いている振りをしながら黙々と食事を口に運んだ。美味い料理である筈が、何を食べても砂やゴムを噛んでいるような気がした。社長が明日の予定の話をし始めた時、釣り組と島内散策組に分かれようという意見が出された。個人で好きに過ごせばいいと思うのだが、社員旅行と銘が付く以上団体行動は必須だと言う。 「おい、あんた海の近くで育ったんやろ。浜で泳がんか。下着でも裸でも見とってやるけん」  社長は突然麻耶に矛先を向けた。下卑た笑いが起こる。ほんの軽い冗談のつもりだったのだろう。だが麻耶はそれを流す術を知らなかった。 「そうですね。運よくサメにでも襲われれば万歳ですか」  相手を見据えながら笑顔で答えたその場は見事な程に凍り付いた。それが望みだろうという嫌味は思いの外効いたらしい。 「何がサメや。アホか」  社長は苦々しくもその場を取り成した。直属の上司である営業の一人が睨み付けるようにこちらを見たが、それには気付かない振りを通した。    一通りの食事が終わり社長の簡単な挨拶で場がお開きになると、麻耶は案の定上司から廊下の陰に呼び出された。 「あの態度なんや?」 「冗談で返したつもりです。気に障ったというなら今から謝罪しに行きます」 「今から行ってどうするよ」 「ではどう返せば。社長自身品性を欠く言葉だったと思いますが」  上司は呆れたように首を振り、「もういい」と言って自分の部屋へ帰って行った。その後社長以外は別の部屋に固まって、二回目の宴会を始めたようだ。当然の如く自分は呼ばれなかった。それでいい。自分はつるむ為にここに来たのではない。  早々に睡眠導入剤を飲み、やはりスリップに着替えるとベッドの中に入った。サラサラのシーツが心地よい。近くで宴会が開かれているのにも関わらず、この部屋は静かだった。風に揺れる木々の葉擦れの音とともに、砂浜を駆け上がる波の音が聞こえる。昼間はあれ程凪いでいたのに、風とともに押し寄せ砕け散る波の音は荒かった。海が騒いでいる。何を待っているのだろう。上向いて暗い天井を見ながら、麻耶は引き込まれるように眠りに落ちていった。    全ての雑音が消え、深い水底にいるようなコポコポという振動にも似た音だけが響く、闇の中で麻耶を包む白い微小なものの大群は、プランクトンなのか、自らが起こす気泡なのかも分からない。ただそれらは自分を追い越して遥か上方で輝く水面に向かって上昇して行く。これは夢だと分かっている。麻耶は今夢の中でこの濃紺の深淵に沈もうとしていた。このまま底の底へ足が付けば、その脚を根にして水底に咲く花になろう。ゆらゆらと潮の流れに揺らめく海の一部となって、白い手を伸ばし、永遠に輝ける海面を見つめる花になろう。薄く開いた目にはちかちかと瞬く青い光が映った。ああこれで海へ帰る事ができる。揺らめく潮の渦に巻き上げられるように青い光は麻耶を包んだ。何かに撫でられるような感覚を感じた。冷たい何かが揺蕩う腕に触れ、瞳を覗き込む様に青い光が瞬く。それはまるで異形の者が見せる黒い眼窩のようだった。    ふと目が覚める。時計を見るとちょうど2時を回ったところだ。寝着いたのが早い時間だったので、薬が早く切れてしまった。いつもならそのまま寝続けるが、酷く喉が渇いていたので、ホテルの寝間着をはおり、階下のエントランスへ下りた。確かミネラルウォーターの給水器がおいてあった筈だ。宴会は既にお開きになったのか、廊下も階下もしんと静まり返っていた。  フットライトを頼りに、足音を潜めて木製の階段の手摺を取り、ゆっくりと階下へ降りる。エントランスに人の気配は無かったが、掘り炬燵脇の給水器の紙コップで冷水を飲んでいると何かが背後で動く気配がした。振り返る。闇だけがそこにある。 「眠れませんか」  低く抑揚の無い声に、麻耶はその場から飛び上がるように後じさった。悲鳴は辛うじて抑えたが、水がこぼれ、床に滴の斑点を作る。 「驚かせてしまいましたね、申し訳ありません」  湊はキッチンから布巾を持ち出し、床を丁寧に吹く。先程背後で気配がした筈だった。だが暗闇に慣れた目で見ると、掘り炬燵の手前で仮眠を取っていたであろう様子が伺える。 「あなたは休まれないんですか?」 「お客様がいらっしゃっている日には基本仮眠だけです。といっても横になる程度ですが」  湊は無表情のまま穏やかに淡々と言葉を繋げる。 「あなた以外人はいない?」 「おりませんよ」  彼は正面から麻耶の目を見て答えた。麻耶の視線をここまでしっかりと受け止めた相手は初めてだった。深淵の更に奥のような漆黒の瞳を見て、麻耶は何故か波の音を聞いたような気がした。 「あともう少しで早朝の朝釣りに出かける方々がいらっしゃいます。ご一緒されますか?」  玄関脇には数本の釣竿と、クーラーボックス。氷が入っているであろう発泡スチロールのトロ箱が何段か用意されている。湊は態と聞いているのだろう。接待に忙しく立ち働いていたといえ、この一行の中で自分がどれだけ浮いた存在であったかは気付かぬ筈がない。 「行くと思いますか?」 「思いません」  湊は即答して少しだけ微笑んだ。 「もし眠れないのであれば島の周囲をご案内しましょう。夜の散策はまた違った趣があります」  ふと昼間の船長の言葉を思い出し、麻耶は返答に迷った。 「勿論無理にとは言いません」  あの青い瞬きが目の裏に映る。朝になればそれは露のように消えてしまう光だ。波の音がする。こちらへおいでとあの暗い眼窩が呼んでいる。 「どうしますか?」  するりと伸ばされた右手を麻耶は無意識のうちに取っていた。開かれたドアの向こうは、まだ漆黒の宵闇が広がっている。眠りにつく前までごうごうと鳴っていた海鳴りは既に音を潜め、替わりに生温い塩気を含んだ柔らかい風が麻耶の短い髪をゆるゆると撫でてゆく。 「面白い場所をご案内しましょう」  湊はそう言って麻耶の手を引いたまま、アウトドア用のランタンを持ち足元を照らす。人工的な光の輪はこの島の闇には全くそぐわない異質な存在でしか無かったが、それをわざわざ口にする事も憚られた。 「島の反対側になりますので、少し歩きますが」 「構いません」  普段から敢えて歩く事を選ぶ麻耶からすれば、島一周と言われても断る理由は無い。歩くのは好きだ。一日澱のように溜まったものが、無心に歩く事で体外に消す事が出来る。そしてそのまま海風に当たり、潮の香りを浴びる事で全ての澱んだものを流し去る。それは恐らく男性の射精のようなものだと思っている。麻耶にとっては適当な男と寝て性的快楽を得るよりも、全身を汗で濡らして海風に全てを流す事の方が、より強い悦楽を得るに等しかった。汚れた海のうねる波は、きっと自らの秘部から流れ落ちる体液と同じなのだと思う。  
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