死の光

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死の光

 湊はコテージの裏側に回ると、そこから島を横切るように進み始めた。周囲が約10kmならば、直径は3km程度になる筈だ。そう遠い距離でもない。ゆっくり歩いたとしてもまず一時間は掛からない。 「この島の名前を知っていますか?」  唐突に聞かれ、麻耶は言葉に詰まった。島の名前など気にも留めていなかったのだ。だが湊は笑った。 「知らなくて当然です。この島にきちんとした名はありません」 「何故です?」 その問いに僅かな間をおいて湊は言った。 「それは今から行く場所に着いてからお話しましょう」  その時に気が付いたのだ。何故この男に違和感を感じたのか。男は一切瞬きをしなかった。切れ上がった眦の中心にある黒目は、一瞬だけ闇夜の中で玉虫色のような青い光彩に囲まれたように光った。麻耶は反射的に手を放し、相手との距離を開けた。 「……あなただけが最初から私に不審を抱いていましたね。ですが安心してください。誓って危害を加える事はありません」  主は再度手を差し伸べる。海が見たいのだろう。本物の海が。そう言われている気がした。再度手を取る事は無かったが、麻耶は男の隣に近付いた。 「案内してください」 「畏まりました」    ランタンに導かれ、麻耶は再度歩を進める。最早この男が異形のものだとしても、それに抗う意思は無かった。そこから30分程歩いただろうか。互いに無言のまま、ランタンの白い光に導かれ着いた先は、波の音が一層強く響く場所だった。島の外側は樹木が覆い繁る形になっているが、その中心部は広い平原の草地だ。やがて公園のように石畳で舗装された場所を進むとその場所に着いた。草地がいきなり途切れ、その先は十数メートルはあろうかという断崖になっている。湊がランタンを掲げると、その場所の様子が更に良く見えた。断崖は丸く、その底は恐らく膝くらいまでの深さで波が行き来している。その先にはトンネル状に大きくくりぬかれたような岩があり、そこには古いしめ縄のようなものが下がっていた。波はそのトンネルの足元を越えてザブンと中に注ぎ込まれている。 「この岸壁は外洋の荒波を受けて自然とあの形になったのです。今ではそう強くない潮の流れですが、昔は相当に荒れていたと言います」  波が入り込む。底が透けるような美しい波間に、青い光が瞬く。波に洗われて丸みを帯びた黒い石は光を当てると玉虫色に鈍い光を纏い、青の灯明と闇が合わさると、それは美しい釉薬の文様のように輝いた。 「……耀変天目のようですね」  麻耶が呟くと、隣に立つ湊は「耀変天目茶碗ですか?」と答えた。 「そうです。あれは……茶碗の中に宇宙が見えると言われるそうですが、私にはこの海こそが耀変のように見えます」 「耀変の島ですか。いい名前ですね」 「本当の名前は何というのです?」  あくまでも勿体ぶったように何事も明かさないような湊の態度に、麻耶は少々苛立ちを覚えていた。ザブンザブンと波の音がする。湊は相変わらず無表情のまま静かに口を開いた。 「残念ながら先程も言ったようにこの島に名は有りません。ここはその昔流刑地で、この断崖は亡くなった罪人を葬る為の墓地だったと聞いています。あそこにしめ縄が見えるでしょう。亡くなった罪人の遺体を波に晒し風葬する場だったそうですが、その風習が消えてもなお、海流のせいか海で亡くなられた方の多くが未だここに流れ着く事が多いのです。ですがここに辿り着いた方の殆どは既に個人の識別が難しい。あの光は屍肉を好む掃除屋が放つものです。すでに傷んだ御遺体が分解され、絶えず流れ込む波が骨を砕き石や砂に紛れてまた海へ流出するにはそう時間はかかりません」 「屍肉を好むのは海ほたるだけでしょうか。元々海ほたるは湾内のような波の穏やかな場所に生息するものと聞いています。この外洋の波は彼らの環境に合わないのでは」  麻耶の言葉に湊はじっとこちらを見つめた。その瞳が青い鈍色に輝き、中心に大きな黒い穴のようなものが見えた。流れ着いた死体に群がる青い光、それは甲殻類の幼生などでは無い筈だ。この洞窟のような青と黒の瞳を持ち、腐敗した肉の周りを這いまわり、骨まで舐るように喰らい尽す何者かがここには居る。 「貴方の言う通り、ここには海ほたるだけがいるのではありません。正しくは海ほたると言うものはいないのです。ですがそれを何と呼ぶのかは貴方自身が確かめた方が良さそうだ」  湊はじりと麻耶との間合いを詰めた。風がごうと吹く。寝間着を羽織っただけの下着に近い姿で、麻耶はそれを隠す事も無く無言で佇んだ。ショートボブの髪が乱れ飛ぶように舞い、口元で纏ろう。湊はその口元に触れた。 「……貴方の背後には死が見える」  その言葉に驚きは無かった。この男がそれを見抜いているととうに知っていたから。 「貴方は死そのものに見えます」  湊は悠然と微笑む。 「知りたいですか?この島に巣食うものの正体と死の存在を」  麻耶は視線を外せなかった。波の音が響く。麻耶を読んでいる。こっちへ来ておくれよ。波間の朧げな光のような囁き声が聞こえる。 「引き返すならば道はあちらです。ですがこの先を知りたいと言うならば、貴方は僕の手を取らなければならない。だが貴方は知りたいはずだ」  湊は再度その手を差し出した。彼自身の黒髪も風に乱れ、その目元は見えない。だがその間からも青い鈍色の光は瞬いている。 「貴方は彼らの仲間ですか」  湊は問いには答えなかった。その問いの答えは伸ばされた手の上にある。死と言う甘美な虚無の世界が彼の掌の上で転がされているようだ。本当はこう聞きたかった。「貴方は私を喰うのですか」と。命を奪って貰えるのですか。この海にこの身の全てを散らし、骨の欠片も残らない程喰い尽して無の世界へ送り出してくれますか。私は全てを終わりにできますか。聞きたい事は繰り返し迫る波のように麻耶の脳裏に押し寄せた。 「やはり貴方は私と一緒に来た方が良さそうだ」  湊は麻耶の頬を撫でた。麻耶は自分でも気づかぬうちに泣いていた。だがその涙さえ強さを増す風に飛ばされ、滲む視界は彼の耀変のような不思議な瞳を余計に輝かせた。  
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