視る

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視る

 眼前には暗い海が湖面のように凪いで、明るい月の光を映している。ここはヨウが定宿にしている、漁港に面した民宿の一番景色の良い南向きの角部屋である。ヒサはその窓際に座布団を寄せ、風呂上がりの浴衣姿で目の前に広がる景色を見つめながら座っていた。  七畳半の和室は、テレビと座卓があるだけの極シンプルなもので、潮風を感じながら波の音を聞いていると、真夏であってもエアコンは必要ない程に涼しかった。  風呂から戻ってきたヨウが「まだ見てる」と笑う。ヒサはサッシ戸を閉め、開け放たれていたカーテンを閉じた。既にのべていた布団には、僅かに潮の香りが移っていた。  ヨウの手には、階下の自販機で買ったらしい瓶入りの炭酸飲料が二本あった。既に栓は抜かれていて、手渡されたヒサは彼と一緒に喉を潤した。仕事前日にヨウがアルコールを体内に入れる事は無い。それはヒサも知るところだ。 「良い所ね」 「また来れば良いよ。次は四ヶ月後」  そう言って、いつも家で着ているTシャツと短パン姿で窓際に寄せた座卓の横に座る。浴衣だと熟睡できないらしく、いつも自前のウェアを持参するらしい。  二人がこの民宿に来たのは、彼が契約している大型水族館の清掃の為だった。ヨウは落水できない大水槽に潜るダイバーとして、ヒサは小さい水槽の掃除を手伝う地元ボランティア要員として一泊二日の日程でやって来た。 清掃は年三回、二日間行われ、運営イベントも兼ねている。地元民以外にも旅行がてら参加する県外の人々も多いらしく、実際この民宿にも同じ目的で部屋を取っている家族連れが数組いる。 「疲れた?」 「楽しかった」  ヒサが思ったままを答えると、彼は穏やかに笑った。 「私達は普段表の部分しか見ないけど、今回スタッフさんの気配りや情熱が見れたし。次に他の水族館に行ったら、多分前とは見方が変わるのね」  ヒサの言葉をヨウは黙って聞いていた。 「ヨウの潜る姿も見れたし。凄く満足」 「惚れ直した?」 「そう、惚れ直したの。凄くセクシーだった」  それは休憩がてら見学に行った大水槽でのヨウの姿だった。  水量1300tにもなる水槽となれば、大型の回遊魚が多く、他の水槽のように落水して水槽を空にする訳にもいかない。普段からろ過装置と、小さな気泡を使った細かいゴミを巻き上げる様式を駆使してはいるようだが、それでもダイバーが潜って実際にアクリルや底面に着く汚れを落とすのは必須であるらしく、また強い水流の中でも完全な作業が可能である、ヨウのようなプロダイバーの指導が入る事で、水族館スタッフの技術の底上げを図っているのだと、館長の平井直々に説明を受けた。  ヨウはその細い体を揺らす事も無く、ただ黙々と底面の掃除に当たっていた。かなり重いウエイトを着けているとの事だったが、易々と移動を繰り返しては、自前のスポンジやブラシを丁寧に駆使して、見る間に汚れを落としていく。レギュレーターから漏れる空気は極端に少なく、シュノーケリングで潜っているのかと思う程に彼の周囲だけが静かだった。そしてある程度の作業が終わると、他のスタッフが吸盤でアクリルに張り付いている中、全体を見渡すように水槽の中心にホバリングするようにぽかりと静止したのである。気泡の柱を背負い、大型の魚が往来する中にゆったりとフィンを動かすしなやかな彼の姿は、まるで違う種類の美しい魚を見るようだった。余りにも鮮烈なその姿は、未だにヒサの脳裏に焼き付いて離れない。きっとこれからも、あれ以上に美しいものを見ることは無いだろうと思える程である。だがヒサはそれを本人に説明する術を持たない。寧ろ有り体な言葉でその感動を伝える事はしたく無かった。 「明日も早いんでしょう?」 「うん。でもさ……」  ヨウはすぐ目の前来て、手に持っている瓶を取り上げて座卓に置くと、肩で押すようにヒサを布団側へ促した。ヨウは既に全身で艶を放っていて、こうなればヒサが抗う術はない。そもそも彼のスイッチが何処にあるのかすら分からなかった。 「起きれるの?」 「ヒサが起こして」 「嫌よ」  言いながらも、浴衣の合わせを大きく肌蹴られ、首筋を吸われながら胸の先端を軽く摘まれると、「んっ」と声が漏れた。 「今日は声出せないよ。ファミリーが多いから」  ヨウは悪戯めいて、そして艶やかに笑う。意地の悪い男だ。  裾に伸びる手を制しながら、それでも身体は布団の上へ押しやられる。繰り返されるキスに蕩けながらも、最後の抵抗とばかりに手を抑え続けると、急に視界が反転した。ヒサは簡単に布団の上に転がされ、両手を縫い付けられていた。 「ダメ」 「もう遅い」  その直後、唇に割り込むようなキスが降ってくる。吐息すら吸われる程の強引さに、ヒサの唇は無意識に開いた。舌が絡まり、歯列をなぞられる。寒気を覚えるような熾火が身体の芯に灯る。  ヨウはすっかり大人しくなったヒサの体を向こう側に横倒しにして、背後から沿うような体制を取った。浴衣の裾が捲られる。帯だけがそのままの状態で残っている。首筋から肩先に唇が這い、その美しい指がヒサの胸の突起を弄ぶ。 「明かり消して……」 「黙って」  言いながらヒサの下着を引き下ろすと、上になった右脚を大きく上げさせた。セックスをする時はヒサはヨウの言いなりだ。それくらいヨウのもたらす快楽は狂おしかった。  ヨウは指先を舐め、露わになった秘裂をなぞり始める。ヒサの奥処は既に潤っていて、指の刺激で簡単に蜜を放つ。 「もう濡れてる」  密やかに囁くヨウの柔らかく低い声を聞くだけで、ヒサは息が漏れそうになる。後ろからゆっくりとほぐすように長い指を差し込まれると、ヒサの背は仰け反った。 「感度良すぎだって」  クチュクチュという水音を態と響かせるように、ヨウはヒサのそこを掻き回した。差し込まれる指が増え、ヒサは咄嗟に自分の右手で口を塞いだ。帯が解かれると、ヒサは簡単に身一つになった。ヨウが服を脱ぐ。同じ裸身を晒し、脱がせた浴衣を下に引くと、右脚を上げた形のまま背後から押し入ってくる。 「ふ……んあ」  いくら塞いでも吐息は漏れる。擦り上げられる刺激にヒサが悲鳴を上げようとすると、ヨウが背後からその口を塞いだ。 「声出すと他の部屋に聞こえるよ」  掠れる低音が耳元で響き、そのまま耳朶に歯を立ててくる。 「んっ……ん」  容赦なく奥を責めるヨウの器官は熱く、自分の中を一杯に満たして流麗に動き続ける。空いた手が胸から敏感な芯芽へ移動した時、ヒサの身体は跳ねた。 「そんなに締め付けたら直ぐ出ちゃうよ」  ヨウは笑ったが、ヒサに余裕は無かった。ヨウが避妊具を付ける為に一旦繋がりを解いた時、ヒサの目から無意識の大粒の涙が零れた。  この男が欲しい。自分という水槽に閉じ込めて、自分だけの海で泳いで欲しい。だがそれは望んではならない事だった。彼は深く青い水底に沈む彼独自の世界に住む存在だ。他人の用意した場所で生きる人間では無いとヒサ自身が知っていた。 「……中に出してよ」  ヒサは脱力したままの姿でそう言った。声が上擦っている。この時初めてヒサの様子がいつもと違うと知ったのか、ヨウはその頬を取って仰向かせた。 「嫌だった?」 「違う……私の中で何回もイッて欲しいの」 「どうしたの」  そう言って身体を離そうとするヨウを引き倒し、ヒサは自ら屹立するヨウを自分の中に埋めた。彼の肩先に手を置き、擦り上げるように腰を動かす。外から聞こえる波の音が、繋がる部分から響く水音を攫うように消す。 「ヒサ、待って」 「イイって言って」  ヨウが身体を起こす。繋がったまま、ヒサの背を抱く。額に張り付いたヒサの短い髪の毛を掻き分けながら、その濡れた頬を撫でた。 「どうしたの急に」  不安気なヨウの表情を見ていると、自分自身が情けなくなった。ここまで人を好きになるとは思ってもいなかった。たが行きずりという関係に近い二人には、今はセックスという身体の繋がりだけが全てだ。ヨウ本人から好きだとか、付き合って欲しいという明確な意思表示を聞いた訳でも無い。ただ一緒に居ることが増え、互いの家を行き来し、休日の前に肌を合わせる。だが彼が何が好きで、何を見て、何を思っているかという事は、ある意味触れてはならない禁忌のような気がして、ヒサは逃してはならない魚を見えない網で囲うように、付かず離れずの関係を続けてきたのだ。だがそれだけでは足りない程、ヒサはこの男の全てを望むようになってしまった。 「抱いて欲しいの。心がダメなら、身体だけでも繋がっていたいの」 「抱いてるよ。今もヒサだけを抱いてる」  彼が動く。強く抱きかかえられ、揺らすように突き上げてくる。その腰に脚を絡ませ、ヒサも動く。ゆさゆさと揺れる刺激に、首が落ちるように反る。その眦からは止まる事なく涙が溢れた。 「もっと、もっと強く……」  首に手を回し、その背にしがみつく。抜き差しを続けるヨウを絞めると、彼の口から呻きとも喘ぎともとれるくぐもった吐息が漏れ始めた。ヒサの背に悪寒が走る。互いの果てが近づいている証拠である。ヒサの器官は窄まり、ヨウの先端がその奥を押し上げるように責める。 「うっ……う……ふ」  漏れる声を抑える為、ヒサは自分の手首を噛んだ。鋭い痛みと僅かに鉄の匂いがしたが、それでも噛み続けた。 「ヒサ」  ヨウはその手を外させた。 「自分じゃなくて俺を噛みなよ」  ヒサは「ああ」と嗚咽を上げる。涙は枯れることなく溢れ出る。やはりこの男が欲しい。この声も、視線も、体液の一滴に至るまでの全てが。そのままヨウの肩に歯を立てると、彼の整った顔が僅かに歪む。それすら嬉しいと思う自分は、恋情に取り憑かれ、心の端から壊れ始めているのかもしれなかった。 「イク……」  ヒサの下半身が震慄いた瞬間、ヨウはその最奥に自分のものを差し込み、一気にその熱を迸らせた。ヒサはその快感に酔いしれ、高い吐息を漏らす。互いに脱力し、そのままの姿勢で布団の上に崩れ落ちる。ヨウの迸りは長く脈打つように続き、繋がったままの奥から、未だ止まらぬ涙のようにひたひたと流れ落ちた。 「ヨウ……」  荒く呼吸を繰り返す彼の胸元に体を預けたまま、ヒサはポツリと呟いた。 「ヨウが好きよ……」  そう言ってなぞった彼の肩先には、血が滲んでいた。好きという感情を超えるこの思いは何と言うのだろう。  互いに裸のまま布団に入り、ヨウはヒサをあやすようにその身を包んでくれた。だが彼がその後何かを口にする事は無かった。  少しばかり日が上がった早朝、目を覚ましたヒサの横にヨウは居なかった。寝具はきれいに折り畳まれ、彼の私物もすっかり消えていた。ヒサは愕然とした。だが全く予想していなかったと言えば嘘になる。下腹に残る僅かな痛みだけが彼の気配として残っていて、手首の噛み跡には瘡蓋状に固まった血が僅かにこびり付いていた。  紅く腫れた目を製氷機の氷で冷やしながら身支度を整え、汚してしまった浴衣を軽く洗った後に階下へ降りていくと、本日の清掃に出掛ける準備をしている年配の男性と鉢合わせた。男性はヒサの顔を見るなり、パッと表情を明るくした。 「カナエさん、ですね?」 「……はい」  見知らぬ男性に名を知られている事に驚き、ヒサは一瞬怯む。 「お連れの男性は急遽水族館の方から呼出があったようで、随分早くに出て行かれたんですが、貴方の足が無くなるから連れて来て欲しいと頼まれましてね。今はよく眠っているから起こせないと」  男性は一旦言葉を切ってフフと笑う。 「絶対に連れて来て欲しいと懇願するもんですから、必ずお連れしますとお約束させて頂きました」 「ご迷惑をごおかけしてしまって……申し訳ありません」  ヒサは些か脱力した。捨て置かれたのでは無い事は分かったが、それが逆に不安を煽った。男性はそれを察したのか、穏やかに話を変えた。 「朝食がまだでしょう?ここの宿は朝食が絶品です。うちの妻もおりますので、ゆっくり食べていらっしゃい」 「有難うございます」  ヒサは丁寧に頭を下げ、その場を後にした。玄関から続く廊下を少し右に入ると、そこは畳敷きの大広間になっている。既に人数分の膳が並ぶその一番奥の窓側で、先程の男性の連れらしき女性がゆっくりと朝食を摂っている。その隣に座るべきか戸惑っていると、向こうの方から声を掛けて来た。 「どうぞ、こっちへいらっしゃいよ」  言いながらポンポンと隣の座布団を叩く。開け放しの笑顔がヒサの緊張を解いた。 「失礼します。……すみません、朝から無理なお願いをしたようで」  そう言っている間にも、ヒサの膳に暖かい料理が並べられて行く。たっぷりの生しらすが乗っている小ぶりな丼に、赤魚と呼ばれるカサゴのような煮付け。出汁の香る味噌汁や小鉢に添えられた漬物など盛り沢山である。 「多いと思うでしょう?でも直ぐに完食してしまうの」  隣の女性は楽しそうに笑う。確かに彼女の膳は大分進んでいるようだ。小柄で華奢な、鷹揚な雰囲気を持つ女性である。一言で説明するならばチャーミングという言葉がよく似合う。 「同行の事なら気にしないで。私達も何回も参加してはいるけど、お互い顔は覚えても一緒に行動するかってなると、そこはまた別の話でしょう?それがこうして若いお嬢さんとご一緒できるなんて嬉しいものよ」  若いという言葉に気恥しさを覚えながらも、ヒサは問うた。 「ご夫婦で毎回参加されていらっしゃるんですか?」  ヒサは軽く手を合わせて箸を取る。 「そうね。私はもう随分前から。夫はリタイアしてから私に無理矢理連れて来られたのだけれど、今は向こうの方が喜んじゃって」  ヒサは話を聞きながら、煮付けに手を伸ばす。その時に自分の手首に付いた傷痕が薄手のパーカーの袖から覗いたのを、夫人は確かに目に留めたようだった。思わず袖を下げるヒサに、夫人は悪戯っ子のような笑みを見せた。 「恋をするのはいい事よ。ましてや相手に痕を残したいなんていう程の思いは、一生のうちでそうそう得られるものでは無いから。でも今日は海水が滲みて痛いでしょうから、これを貼ってあげるわね」  夫人は傍に置いたウエストポーチの中から小さいパウチに纏めた救急セットのようなものを取り出した。恐縮するヒサの手を取り、簡単に消毒液を付けると、大判の絆創膏をペタンと貼ってくれる。 「夫がね、来るたびに怪我をするのよ。必ずどこかに引っ掛けて、絆創膏貼ってくれって言うの。だからこれは必需品なの」  そう語る夫人の表情はとても穏やかで優しかった。今の自分達がこのような穏やかな余生を共にするとは到底思えなかった。ヨウも、そしてヒサ自身も、互いにそれを望んでいるのかすらあやふやな関係だ。 「今のうちに沢山恋をするといいわ。沢山わがままを言って一杯泣くの。悩む事も苦しむことも、それが若さの特権なの。年老いてから抱える悩みなんて、膝が痛いだの何だのろくなもんじゃないわ」  夫人は温かい手でしっかりとヒサの手を握りながら笑った。その指は淡いピンクベージュで美しく染められていて、彼女は言う通りの人生を送ってきたのだろうと感じられた。 「さあ、残さず沢山食べよ!今日も沢山働かないとね」  彼女は屈託無く笑う。ヒサもつられて笑った。また目頭が熱くなる気がした。    二人の車に同乗して駐車場に着くと、担当場所や就業時間の違いからそこで解散となる事が分かった。入口のゲートを通った後、ヒサが何度も頭を下げていると、そこにウェットスーツを着けたヨウが走って来た。 「突然無理を言ってしまって。本当に有難うございます」  折り目正しく挨拶をするヨウは、今迄見知った彼の姿からは少々印象が違って見える。彼には失礼な見解だが、社会人としての良識をわきまえている事自体、ある意味意外だったと言っていい。  夫婦に丁寧に礼をして別れた後、二人は暫し黙ったまま歩いた。先日からヒサが担当となっているサンゴの海の水槽は、今日ヨウが潜るサメの水槽のすぐ近くになる。ただ気まずさだけが降り積もるような気持ちで、ヒサはヨウの少し後ろを歩いた。  エレベーターに乗った時、扉のすぐ前に立つヨウが前を向いたまま言った。 「知らないよ」 「……何が?」  ヨウは鼻で笑った。憎々しいと言うより、してやったと言う風に見える。これはこれで嫌な予感がする。  扉が開くとヒサが口を開く間もなく、ヨウは「じゃあね」とだけ言って、腕を上に伸ばしながら上機嫌のままバックヤードに入って行った。ヒサは仕方なく昨日から手を入れているサンゴの海の水槽へ行き、汲み出した海砂を洗って水槽へ戻す作業に着いた。各水槽には必ず一人から二人の水族館スタッフが付くが、気付けば何やらそのスタッフの様子がおかしい。昨日は感じなかった好奇の眼差しと、何かしらウズウズとした雰囲気がある。そちらを見れば目を逸らし、黙って仕事に戻ればまたソワソワを繰り返す。それはこの赤い目のせいだけではあるまい。きっとヨウの先程の一言に関係があるような気がする。  居心地が悪いながらもヒサは黙々と砂を洗い、バケツリレーで水槽に戻した後、クリアになった水槽に新しい海水がゆっくりと注ぎ込まれる様子を見守った。 「では一匹ずつ確認しながら戻していきます!」  スタッフの掛け声が掛かると、皆が一斉に動き出す。ここからも更にバケツリレーの繰り返しだ。  簡易水槽にいる魚を少しずつ掬っては人海戦術でバケツで運ぶ。鮮やかさを増した水槽の中に、色とりどりの魚が嬉しそうにひらひらと泳ぐ姿を見ると、それまでの地道な作業が一気に報われる気がした。 「本当は本物の海が一番いいんですが、保護する事もまた人の役割だと思うんです」  感慨深く見つめるスタッフの言葉に、ヒサの脳裏にフラッシュバックのようにヨウの姿が蘇る。深淵に浮かぶ彼は何処に行こうとしているのか。留まりたいのか流されたいのか。ただ一つ言えるのは、この数ヶ月の間に、その答えを求める事すらヒサ自身が避けて来たと言う事実だった。    サンゴの海が元に戻った後、ヒサは同じ階のメイン水槽である様々な種類のサメが展示されている大型水槽へ足を向けた。驚いた事に、そこにはヨウだけがシャークスーツを着けた状態で潜っていて、大きなシロワニが彼に近づかないよう、水槽の上からスタッフが盾を持ち牽制しているだけだった。  殆どの掃除は終了しているらしく、ヨウは小さなブラシで擬似の岩肌の苔を取っていた。レギュレーターの空気は以前と同じく安定していて、シロワニ が興奮している様子も無い。肝が冷える心地だったが、水槽は至って静寂に包まれていて、初めて見た時のように青く美しい光景が広がっていた。 「カナエさん」  名を呼ばれ振り向くと、そこには館長の平井が手を上げて近付いてくるところだった。ヨウが懇意にしている事もあり、作業中も何かと気に掛けてくれていた人物である。こんがりと日に焼けたガッシリとした体躯は、館長と言うよりも現役の漁師のようだ。 「初めてのボランティアはどうでした?」 「楽しかったです。本当に楽しかった……」  ヒサは青に染まるヨウを見ながら言った。平井は「そうか、そうか」と笑い、鼻の頭をぽりぽりと掻く。腕が太いせいか、ヨウと同じダイバーウォッチの面が小さく見える。 「そうだ、実は私達スタッフとしても、とても驚くべきことがありましてね」  平井が神妙そうに顔を寄せるので、ヒサは何か深刻な問題が起こったのかと思い自ら耳を寄せた。 「実はね、とある魚が早朝から大きな傷を負いまして。どうやら新種の魚が噛み付いたらしいんです。聞けば変わった魚らしいですね。水族館に布団敷いて寝たいなんて言うそうで」  ヒサは目を見張る。冷や汗が出る心地で平井を見ると、今にも噴出さんばかりの表情をしている。あの時のヨウの表情が今になって蘇ってくる。ヒサは名誉回復を図ろうと口を開きかけたが、結局はそれを飲み込んだ。今の話の流れでは、ヨウ自らあの痕を皆に披露したということになり、今更何を言おうが何も弁解出来ない事に気が付いたのだ。  背後に気配を感じて振り向くと、そこには真後ろに浮かぶヨウの姿があった。ヨウは肩先を抑え、痛いと言うように身を捩ってみせる。 「何よ!」  ヒサが思わず水槽に手を着くと、ヨウは怖がるように身を竦めた。 「面白い魚でしょう。でもあれも今まで暗い海の底で散々苦労して来た奴でね。当然人を寄せ付ける事もしなかった。でもどういう訳か、その新種の魚だけは違うらしい」 「魚がそう言ったんですか?」  憮然と聞くヒサを見て、平井は笑いながら言葉を続けた。 「この魚はとても縄張り意識が強くてね。その中に棲む魚に他のオスが近付くのが嫌だったらしい。その後の噛み傷ですよ」  確かにサンゴ海の水槽は力仕事が多かった為、男性のボランティアが多かった。だがそれはあくまでもこの二日間だけの事で、例の夫婦が言ったように、この先付き合いが続く訳では無い。 「マーキングですよ。野生の世界ではよくある事です」  ヒサは水槽を仰ぎ見る。青い水の中で銀を纏い、しなやかに揺れる美しい魚がそこに居る。この魚は言葉も感情も全く足りない。海に同化する彼は、こちらが近付かなければその姿すら分からないのだ。 「大切にしてやって下さい。予想以上にデリケートな魚です」  平井の真摯な眼差しと穏やかな言葉に、ヒサは「分かっています」とだけ答えた。    彼の海から見るヒサはどんな姿に映っているのだろう。潜水を終える合図を送っているヨウが、こちらに視線を向けたので、ヒサは人差し指を自分の胸に当て、そのまま二本指で自分の目を示した。 “貴方を見ている”  最後にヨウに向けて指を差すと、ヨウがゆったりとすぐ側まで近寄ってきた。後ろにはゆうゆうと泳ぐシロワニがいる。人の縄張りで何をしているのかと呆れているようにも見える。  ヨウは両手を組む仕草を見せ、次に人差し指を立てて合わせた。 “手を繋いで、一緒に”  何気なく見たダイビング雑誌の中にあった、ハンドサインである。更にヨウは人差し指と親指で丸を作る。 “OK?”  ヒサはそのサインが明確に何を示すのかが分からかったが、ただ一緒に帰ろうと言っているのだと思いOKのサインを返した。ヨウはそのまま銀色の鱗をひるがえすように、ふわりと浮上して行った。    昨日とは逆側に見える海沿いを走り帰路につく。凪いだ海は、昼間と夕刻の間にあって、その波の天辺は金粉を吹いたようだった。 「痛かった?」 運転するヨウのTシャツの首元を捲ると、赤黒い痣のようになった噛み跡が見えた。 「すげえ滲みたよ」 「ごめんなさい。帰ったら消毒するから」 「舐めて治して」  笑いながらこっちを見る。何故かその顔がとても美しかったので、ヒサは前を向いて返した。 「バカじゃないの」  ヨウは「昨夜は可愛かったのになあ」と呟いた。  ヒサは俯く。彼の肌の熱さや、自分を揺するそれと、支える腕の強さ。今思い出しても顔が熱くなる。 「それで、何時にする?」 「何を?」  ヒサが真顔で問うと、ヨウも至って真面目に返してきた。 「引越し。OKって言ったよね」 「引越しって何よ?一緒に帰ろうでしょ?」  ヒサが身を乗り出すと、手を掛けた反動でハンドルがブレる。慌ててそれを修正しながら、ヨウは声を上げた。 「違うよ!一緒に暮らそうって言ったの」 「分かるわけないじゃない!」   呆れて声を上げると、ヨウが何か言おうとこっちを向こうとしたので、無理矢理頬を押して前を向かせる。 「余所見禁止」  車内には暫し沈黙が流れた。 「……一緒に暮らそうよ」   少しばかりおずおずと伺いを立てるようなヨウの言葉に、ヒサは俯いて笑った。あれだけ激しい夜を過ごした仲であるのに、妙に照れくさかった。 「どうしようかな、でも」 「でも?」 「次の信号でキスしてくれたら本気で考える」  ヒサがそう言った瞬間、ヨウはハンドルを切り、信号より随分前の路肩に停車した。彼はベルトを外し運転席から身を乗り出して、助手席に座るヒサの首の後ろを支えるように手を添えて徐ろに唇を重ねて来る。  ああ、やはりこの男が欲しくて堪らない。繋がる銀糸のような唾液すら芳しい。 「合格?」 「よく分かんない」  ヨウは、態と首を傾げるヒサの頬を取ると更に唇を奪う。 「良いって言うまでやめない」  ヒサはヨウの首に手を回す。引き寄せて自ら唇を重ねる。波間の金粉は更に色を添えて、光と共に二人の居る車内を照らし、重なり合う影が落ちる。  もしまだ彼自身が迷い戸惑っているならば、自分がその寄る辺になればいい。たとえ離れる時が来たとしても、その時までは共に時を過ごせたら。そしてそれがいつか別のものに変わるように。  唇を離すと、少し冷たい鼻先を合わせる。擽ったさに二人で笑いながら、更に突つくように何度も合わせる。再度唇を合わせると、その吐息やベルベットのような舌の感覚は、甘くてほろ苦いキャラメルを口に含む感覚を思い出させた。 「何処か泊まる?」  ヒサは笑った。 「帰ろう。ヨウの家に」  ヒサが言うと、ヨウはシートベルトを付け直した。彼からもう一度頬に軽くキスを受けた後、ベージュ色の車は走りだした。随分と当て所ない道を走って来た気がする。だが今は二人で帰る場所がある。  空は淡く藍色を宿し始め、波は桜桃の色を放ち始める。今はただ静かに、海を宿すあの家へ向かう。
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