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 身支度をしてバッグの中身を整えていると、浴室から出てきたヨウは、あからさまにまだ居たのかという表情をした。 「…何か飲む?」  社交辞令のように棒読みでそう言う彼は、滴こそ垂れていないが、まだ髪は濡れたままだ。既に陽は傾き、昼過ぎからついさっきまで、彼のベッドでセックスを愉しみ、短い睡眠を取っていたばかりだ。 「帰るわ。何か食べるなら作るけど」 「いや、腹は減ってない……」  つまり早く帰ってくれということだろう。ヒサはそのまま何も言わずに、その場を後にした。次の約束も「またね」の言葉すら無い。そもそも二人は、知り合って間もない間柄だ。明確に付き合っているというわけでもない。    それは、底冷えの残る初春の頃、合コンの数合わせに参加させられただけの、所謂完全におマメ扱いの出会いだった。合コンと言えばライトな感覚に聞こえるが、三十歳を機に本気で婚活を始めた男女の、至極真面目な集まりだったと言っていい。  お互いテーブルの脇に追いやられ、出される大皿の料理をただ黙々と食べては、盛り上がる男女達を外から見ているだけの二人だった。特に彼は人の中に入るのが苦手なのか、初めから酷く所在無げにしていたが、時間が経つにつれ、一人遊びをするようになっており、人の話を聞いている振りをしながら、飲み物の注文用のペンで、箸袋や紙ナプキンに何やらコソコソと書き込むようになっていた。この中でも一際整った顔立ちをしている為、それなりに声をかければ女達は一切に纏わりつくであろうに、人の輪に入る気配どころか、拒絶すら感じさせる頑なな雰囲気を醸し出している。  ヒサは興味に駆られてそっと聞いてみた。 「何描いてるんですか?」  自分に興味を向けている人間は居ないと思っていたのか、彼は一瞬たじろぐような表情を見せた。 「いや、適当に…」 「見せて」  手を伸ばすと、彼は苦笑して箸袋の一枚をテーブルの横から皆から見えないよう寄越した。受け取る時に見た彼の手は女性のように細くしなやかで、華奢な指をしていた。  ヒサはそのままテーブルの下で、その箸袋に描かれたものを見た。だがその瞬間思わず口元を手で覆って横を向いた。箸袋には六匹の海洋生物が描かれていて、それはまさに、今目の前で恋の駆け引きを図っている自分達以外の男女の様子だった。しかも女性側は全て危険生物として、男性はその餌となる魚たちとして描かれている。アイラインの濃い子はシャチ、髪を綺麗に巻いている子はカツオノエボシ、ゼブラ柄のフレアワンピースを来ている子はミノカサゴである。男性はオジサンという髭の付いた魚であったり、おでこが広い男性はナポレオンフィッシュだったり、現物も無しによく描けるものだというレベルの絵である。見れば見るほど可笑しい。ヒサは中々口元の手を外すことが出来なかった。やがて顔を背け続けるヒサの手から、彼はその箸袋をすっと取り戻した。 「待って、それ頂戴」 「ダメだよ」  彼は密かに笑う。 「今渡したら吹き出すでしょ」  確かにそうだった。見続ければ笑いを堪える自信は無かった。    会がお開きになり、皆が二次会に行くと言った時、二人は先に帰ると伝え、別々の道を辿り、駅近くで待ち合わせた後、そのまま自分から誘ってホテルへ行った。奥手な雰囲気とは裏腹に、名も知らぬ彼は驚く程にヒサを翻弄した。身体の相性も相当に良かったのだろう。その美しい指を中に差し込まれただけで、ヒサは大きく喘いだ。上になり下になり、舌を絡め、時を忘れたように揺れ続ける。忘れかけていた人肌の香りや体温を存分に味わい、二人は裸身のままベッドに仰向いて、天井の鏡に映る視線を介して会話した。  最初は実に他愛もない会話だった。何故合コンに参加するはめになったか、から始まり、それに対しての愚痴や、合コンが如何に不毛な活動であるかなど、弾かれた者同士の言い訳などもあった。そこまでは極普通のありきたりな一連の会話に過ぎなかったが、ヒサが興味を持ったのは、それぞれの仕事について話が及んだ時だった。    彼はヨウという名で、マスターインストラクターという、かなり高位のダイビングライセンスや潜水士の資格を持つ、プロのダイバーだった。幼い頃から海が好きで、祖母の死をきっかけに高校を中退し、当時アルバイトをしていたダイビングスクールの正社員となって働きながら必要と思われるライセンスを片端から取得したのだと言う。その後は全国各地を転々として、関連の仕事に従事しながら経験を積み、現在は大手のダイビングスクールに籍を置く傍ら、水族館の清掃など個人での仕事も請け負いながら、月の半分近くは地方に出かけているらしい。  祖父母が海沿いの町に住み、幼い頃から夏になる度に美しい海で過ごしてきたヒサからすれば、正に興味をそそる職種である。あれだけの絵が描けるのも納得がいった。  ヒサは自分が普段から足しげく水族館に通っている事や、自分の郷里の海の話をしたが、ヨウの反応は意外なほどに薄かった。またヨウからこちらの素性を聞くことは皆無だった。つまり他人に対して興味がないのだろうと、ヒサは余り深追いする事のないよう、彼が答えるであろう事だけを聞いた。 「絵が上手いのね。どこかで習ったの?」 「まさか、独学だよ。本当は海の絵が好きで、それであれこれ描いてたら、生き物にも興味が出ただけ」  ヒサは返答に迷った。「勿体ないわね」という言葉では済ませられないような事情を抱えているように見えたからだ。だがヒサが聞く前にヨウは自らあっさりと話し始めた。 「俺親族が居ないんだよね。天涯孤独ってやつ。育ててくれたばあちゃんは高校生の時に病気で死んだし、親父は最初からいないし、高校の時のバイト先が居心地良くてそのまま働き始めて。絵は完全な趣味」 「……お母様は?」  ヒサは聞いていいものかどうかを迷いながらも敢えて聞いた。この質問は禁忌のような気がしたが、無視するのも不自然な気がした。 「さあ、知らない。俺が幼稚園に入ったすぐ後に出て行ったから」  ヒサが沈黙するのとは裏腹に、ヨウは饒舌に語った。 「あんまり覚えてないんだよ。後姿とか……そんなくらい。髪が長かったからそれが風に靡いてて、傷だらけのスーツケースがガタガタ鳴ってたり、それが最後」  ヨウは会話の内容とそぐわない笑顔を見せて掠れた声で笑った。ヨウという男の中にある、深い洞窟のような暗闇を見た気がした。余り覚えていないという割に、鮮明な映像の記憶がある。おそらく欠如しているのは、その時の本人の感情の記憶のような気がする。 「ねえ、大水槽の掃除ってサメも居るの?怖くない?」  ヒサが話を変えると、ヨウはいとも簡単にそちらに話を戻す。自分の生い立ちすら興味が無いといった様子だ。 「怖くないよ。事前に餌もやるし、こちらが刺激しない限り無差別に襲ったりしないよ。もし襲われても運だと思うしかないよね」 「運で済む話?」  呆れたように返すと、ヨウは笑った。 「だって毎日数千人って人が事故や病気で死んでるんだよ。そこに一人増えるだけだよ」  ヒサは笑えなかった。書店員として長年接客業に就いている自分でも、この時は愛想笑いすら出てこなかった。  ヨウの視線には感情が無い。笑ってはいるが、その瞳の奥はどこか虚ろな仄暗さを宿している。 「君だっていつ地震が来て、でかい書棚の下敷きになるか分からないじゃん?」  冗談とも本気ともつかない言葉に、少しばかり背筋が寒くなるような感覚を覚えながら、ヒサはつんとして答えた。 「ならないわよ。私は逃げ足が速いの」  ヨウは「ふうん」と笑いながら、汗の引いたヒサの肌を撫で、殆ど平らになった小さい胸の先端に吸い付いてきた。 「あ……」 「感度良いよね」  ヨウはぞくりとするような色めいた眼差しで覆い被さってくる。ヒサの脚は自然に開いた。    二人は度々会う事が多くなり、その度にセックスを愉しんだ。愛情があるかどうかも分からない、刹那的な情事は、ヨウ自身の生き方そのもののように思う。実際彼とのセックスは非常に良かった。本来自分が快楽に対して奔放だということは承知していたが、それを完全に解放したのはヨウという存在だった。今迄満足のいく果てを知らなかったヒサに、彼は初めて何度もその波を与えてくれた。潮が満ちて引くように、快楽の波間を漂うようなセックスは麻薬のようにヒサを虜にした。繊細な指や舌の動きとは裏腹に激しく粘るような律動で、何度意識が飛んだかも分からない。仕事の都合で一週間以上会えない時には、その指の動きを思い出して自分で慰める日もあった。ヨウという男に深入りする事が、ある意味危険であると分かっていても、ヒサは彼の呼び出しを断る事が出来なかった。    呼ばれれば応え、用が済んだら去る。この繰り返しを数カ月続けたある休日、彼は突然自宅にヒサを招いた。郊外にある古びた小さな二階建ての一軒家は、彼の祖母が残したものだという。本来は新婚の夫婦に貸していたようだが、子供が生まれて手狭になった事を理由に、保育園近くのマンションへ引っ越したらしい。極一部を除き、リフォームやDIYなど一切の制限をかけていなかったせいか、外壁はスカイブルーに塗られ、室内も自分たちで好きに手を加えていたようだが、逆にそれが良かったと、ガラスの引き戸の鍵を開けながらヨウは言った。  家の前に門扉は無く、コンクリを打った広い駐車スペースがある。そこに停まっている随分とレトロな型のベージュ色のミニ車は、仕事の移動に使うものなのか、古い車種の割によく手入れされている。玄関の直ぐ右に大きな掃き出し窓があり、上げられたブラインドの下から、そこが板敷のリビングである事が分かる。さらにその右手は、透明な波板で屋根を葺いた物干し場らしき極小さな庭のようなものもあり、そこには仕事道具であるフィンや、ウェットスーツが下がっているのが見えた。 「入ったら?」  促されて入ったそこは、海の砂のようなベージュ色の壁紙が続く廊下だった。右手に入ると先程見えた板敷の広いリビングがある。リビングといえば聞こえはいいが、ただベロア調の大きな青いソファと、年季の入ったちゃぶ台が置かれただけの部屋だ。棚はおろかテレビすら無いそこは、ほぼ全面を大きな掃き出し窓で囲われ、蛇腹式の和紙のブラインドを通してでも日当たりの良さが分かる。前の住人が塗ったのであろう壁は、外壁よりもやや薄いブルーで、隣家から大きな庭木を通して降り注いでくる陽光が室内に反射して揺れる様は、まさに海の中に漂うような錯覚を覚えさせた。 「何もないでしょ?」  ヨウは家の鍵をキッチン側のシェルフのフックに掛け、ブラインドを中ほどまで上げて掃き出し窓を開けていった。さわと風が通り抜け、室内に籠った空気があっという間に流れると、家の周囲を取り囲む草地の青い匂いがした。いつの間にか春も過ぎようとしている。 「でも素敵……海の中みたい」  ヒサの言葉にヨウは笑った。彼が何故突然自分を家に招いたのかは分からない。きっと気まぐれのようなものだろうと思いながら、彼の気配が漂う室内を眺めて回った。 「本当に何も無い」  ヒサは何故か可笑しくなって笑った。緊張がそうさせているのかもしれなかった。 「家の中で一番好きな場所はどこ?」  そう聞くと、ヨウはやおらヒサの手を取って、キッチンの奥へ連れて行った。木の引き戸を開けると、そこは洗面所と、左側に浴室が見えた。ヨウはその洗面台の方へヒサを促した。それは、未だにこんなものが存在したのかという、タイル張りの洗面台だった。よく見ると、モザイクのように整然と張られたタイルの端に、極小さな陶器のカエルが鎮座している。 「カエル?」 「そう、ゲン担ぎだって婆ちゃんが言ってた。無事カエルってやつ。だから愛着沸いちゃって。前の夫婦にも、ここと風呂は弄るなって条件出してたんだ」 「キレイに使って貰ってるのね」  ヒサはその小さな緑のカエルを撫でた。 「風呂にも居るよ。でも後で一緒に見ればいいか」  意味ありげに笑うヨウの尻を、ヒサは叩いた。  キッチンの壁は廊下から続くベージュで、シンクは業務用のステンレス製のものだ。下の棚に鍋や食器類がきちんと収まっていて、男所帯にしては様々な道具が揃っている。シンク上の造り付けの棚にも調味料やスパイスが揃っているところをみると、日常的に自炊している事は明らかだった。リビング側の壁際に置かれたシェルフは、一応デスクのような仕様になっていて、タブレットや仕事に関する書類などが乱雑にファイルケースや箱に入れて置いてある。ここはここで、彼なりの法則で整頓されているのだろう。そしてこの空間だけが、生活の気配が分かる唯一の場所だった。 「二階は和室?」 「そう、二間あるけど襖を外して使ってる。そこもベッドだけかな」 「何色なの?」  ヒサの問いに、ヨウはやけに素っ気なく答えた。 「後で見ればいいよ。コーヒーでいい?それしか無いけど」 「なら聞かないで」というヒサに、彼は適当に座っててと言った。ちゃぶ台の周りには座布団やクッションが置かれている。だが不思議なほどに、ここに人の気配は無かった。ただその場に朧げなヨウの気配だけが散らばっているだけだった。この家にはヨウしか居なかった。一旦他人の手に移ったはずであるのに、その家族の気配すら微塵も感じさせない程、ここは静かすぎる孤独に満ちていた。  ヒサは青いソファに腰掛ける。青い部屋に柔らかく陽が落ちる。今はまだ正午を過ぎたばかりだから、外は今から気温が高くなるはずだ。しかしここはそれとは無縁とばかりに涼風が吹いている。ここの敷地自体はそう広くないが、付近の家々は旧家といった佇まいで、広い庭付きの戸建てが多い。隣家との距離もある為、室外機のようなものから流れてくる熱気が届かないのだろう。更に裏手はこんもりと小高い林のようになっていて、絶えず葉擦れや枝がぶつかり合うような音が響いている。風がそこにある事を、この家は教えてくれる。 「カエルのご利益があったのね」 「ご利益?」  キッチンからヨウの声がした。 「この家に戻ってこれたんでしょう?」 「さあ、戻ってこれたのか、引き戻されたのか。……どうでもいいけど」  ドリッパーで淹れたコーヒーを来客用らしき大きめの白いマグで手渡される。ヨウ自身が持つカップは群青の釉薬が掛かった、いかにも作家の風情のあるものだった。そこかしこにある明確な線引きを感じ、ヒサは沈んだ気持ちになった。  ヨウはソファに座らず、ヒサに背を向けて床に胡坐をかいた。ヒサはヨウの真意が分からず言葉が出なくなった。家に愛着があるようで、その実嫌気がさしているようにも見える。彼にとってこの場所が、決して良い思い出だけで構成されているのではない事は感じていた。けれどタイルの目地は黒ずむことなく真っ白で、何かを必死に守ろうとする矛盾も確かにあるのだろうと感じる。けれどそれについて聞くことは、彼の持つ闇の根幹を突くような気がして、ヒサはただ黙って拒絶を纏う男の背を見守るしか無かった。 「私はこの家好きだわ……」  他に言葉が見つからず、ヒサは呟くようにその背に話しかけた。だがヨウがそれに答える事は無かった。    ヨウが言った通り、浴室には水色の丸タイルの張られた浴槽があり、首元を預ける為にカーブを描く部分の端に、小さな茶色いカエルが同じようにちょこんと鎮座していた。  浴槽の縁に腰掛けるヨウのものを口に含む。ゆるゆると前後に動かしながら吸い上げると、彼の大腿が震える。体を酷使する仕事のせいか、細い体躯は引き締まり、全身がしなやかな筋肉に覆われている。ヒサがその硬い漲りを更に深く飲み込むと、割れた腹の筋肉がぴくぴくと動いた。浴槽の縁を掴む指先が白くなっている。先端から滲み出る液が苦みとも甘みともつかない味を増してきた頃、ヨウは呻くような吐息と喘ぎを漏らした。普段の柔らかいトーンとは違い、低く掠れたような余裕の無い声音は、ヒサの背筋をぞくぞくさせる艶を放っていた。  しんと静まり返る浴室に響く卑猥な水音の背後に、リビングでも聞いた梢が風に揺れ動く音がする。 「っは……」  先端を舌で刺激しながら、手でこすり上げると、ヨウはきつく目を閉じたまま言った。 「出ちゃうよ」 「いいわよ、出して。飲まないけど」  ヒサはヨウの顔を見上げながら、音を立てていきり立つそれを吸い上げる。 「うっ……」  下腹が震え、勢いよく白い吐液が飛ぶ。それはヒサの頬から口元にとろりとかかり、溶けた砂糖菓子が流れるように顎を伝って落ちた。 「ごめん」 「いいの」  言いながらヒサは更に喉奥にヨウを咥えて、滴ごと舐めとった。茶色いカエルは、変わらないままそこに座り続けていた。  二人で汗を流し、バスタオルで互いを拭きながら二階へ移動すると、そこは黒に近い濃紺に白地の波紋様が描かれた唐紙が全ての壁面を覆っていた。階下は穏やかな凪いだ海のようだったが、ここは荒波が砕け散る外洋のようだった。風が鳴る。リビングと同じブラインドからは明るい陽光ではなく、裏の木々から落ちる黒い影が畝り、圧倒的な威圧感を持って押し寄せる。 「……ここは唐紙なのね」 「元はただの紺色だったけど、でも俺が変えた」  ヨウの言葉には確固たる意志のようなものがあった。 二間続きの襖を外し、敷居を跨ぐように大きなベッドが置かれている。そのファブリックも濃紺で揃えられている。同じ唐紙が貼られた床の間らしき場所には、流木が二本ぞんざいに組み合わせて置かれているだけで、ここにも家具らしきものは一切無かった。  門側に向かう一間には玄関を見下ろすように腰高の窓があり、磨りガラスからの光を遮る物は何も無い。そしてその付近には、ブルーシートが敷かれ、膨大な量のカンバスやスケッチの紙が散乱しており、そのどれにも押し寄せ砕け散る波の絵が描かれていた。  ヒサは思わず後退った。波がこちらに手を伸ばして来るような気がする。ヒサを取り込んで飲み込もうとする。この部屋は荒々しさに満ちている。ふいにヒサの肩をヨウが摑んだ。 「皆この部屋を嫌がるんだ」  木々が騒めく。それは外洋に面した荒い波を寄せる、郷里の外洋の音に似ていた。 「そうね……最初は驚くかも」 「最初なんて無いよ。次から来なくなるから」  ヨウは鼻白むように笑った。まるでお前もそうだろうと言わんばかりの口調だった。試している訳では無いだろう。そもそも人に執着するタイプの男では無い。だがこの部屋こそが彼自身を具現化しているような気がして、他の女達が距離を置こうとしたのも分かる気がした。彼は湾内のような凪いだ海ではない。一見そう見えても、その心地よさに引きずられて外洋に出れば、途端に逆巻ような不安定な大波が待ち受けている。更に彼自身はそれらを過ぎたとても暗い水底に沈んでいる。光すら届かない、深淵に眠るようなヨウの姿を感じて、ヒサは目元が熱くなるのを感じた。同情と呼ぶには余りにも救いが無かった。 「……波の絵が好きなの?」  ヨウは答えなかった。ヒサは一際大きなカンバスの渦を巻く波の絵に近付く。岩肌に打ち付ける白波は荒くとも、その下にある陽光を湛えて反射する、澄んだ青緑色の海水は対照的に酷く美しかった。実際にそれを見なければ、描くことの出来ない描写である。恐ろしいが、美しい。その絵には彼が持つ僅かな希望や、それに向かおうとする意志の光が見えた。 「綺麗ね。この青、引き込まれそう」  座り込んで眺めていると、いつの間にかヨウは側に立っていた。ヒサを見下ろす視線はいつもと同じ感情を持たないものには変わりなかったが、それでも少しばかり穏やかに見えた。 「君、変わってるね」  ヨウはそう言って、ヒサの直ぐ側に座った。バスタオルを羽織っただけの姿で、カンバスの前で寄り添い、二人は暫く時を過ごした。    波打つ唐紙が押し寄せる部屋で、ヨウはヒサを抱いた。全身を執拗に舐り、息を上げると唇を塞がれる。砂浜に波が押し寄せて引く様に、ヨウはゆっくりと一定のリズムで動いた。身体中が汗を吹く。ヨウもまた同じだった。二人の汗が混ざり合い、自分というフィルターを通して、白いシーツに染み込んでいく。ヒサの奥から押し寄せる液体は熱く、上で動く彼の動きに併せて溶けるように流れ出る。速度を増す突き上げを受け入れながら、ヒサは必死にヨウの背にしがみ付いた。時折どうと鳴る葉擦れの音は、この部屋では波の音に変わる。快楽の波と、彼が無意識に漏らしている吐息、互いの粘液の水音が混ざり合い、藍色のこの部屋全体がうねり高ぶって二人を波間に引き込む。 「ヨウ」  ヒサはその頬に触れ、初めて目の前の男の名を呼んだ。彼は少し驚いたようだったが、その動きを止める事は無かった。 「ここはヨウの海ね……」  ヒサが呟くと、ヨウはその唇をこじ開けるように口付けてきた。更に律動が増す。彼の形が分かる程に、器官を締め上げると、大きな波は直ぐにやってきた。口を塞がれたまま「ううっ」と悲鳴のような声を上げると、身体の芯が急激に膨張したように熱を持ち、弾けて目の前が白くなった。下腹から広がるように全身が痙攣している。同時にヨウの脱力した身体が、重力を伴って覆い被さって来た。彼が背負う紺色の波が、自分ごとこの部屋の底に攫う気がした。  荒く乱れた呼吸が耳元に心地良く響く。掠れた密やかな喘ぎが漏れ聞こえる充足感。重なり合う心音と、上下する濡れた背中。それらを全てかき抱いて、ヒサは紺青の海の底へ沈んでいった。眠りに落ちる瞬間まで、波の音は二人の間に響いていた。    全てが終わった後、小さなカエルの座る浴室で汗や体液を流して身支度を済ませる。何事もなかったように、この家に自分の気配を残さぬように。きっとヨウもそれを望んでいる。 「またね」  ヒサはその小さなカエルを撫でた。  入れ替わりに浴室に入ったヨウは、案の定酷く居心地が悪そうだった。今後この家に呼ばれるかどうかも分からぬまま、ヒサは取り敢えず招いて貰った礼を言う為だけに、コーヒーを飲んだカップを洗い、簡単にソファのクッションなどを片付けた。シーツは本人が洗うと言ったので、ベッドから外して畳んだ状態で洗濯機の上に置いた。そうして鞄の中身を整理していると、浴室から濡れた髪のまま出て来た彼が酷く驚いた顔をしたのだ。 “何でいるんだよ”そう言いたそうな表情だったが、ヒサはそれを無視した。何か飲むかと問われたが、それにも答えなかった。有り体な会話を少しだけ交わし、ヒサは早々にその場を後にした。次の連絡はもう来ないかも知れない。何となくそう感じていた。それに自分が耐えられるかどうかは別として。  外は既に陽が落ちて、淡い月が上がっている。 「……サ、ヒサ!」  一瞬誰に名を呼ばれたのかも分からずに振り向くと、そこには裸足のまま外に駆け出してきたヨウの姿があった。走ったせいで髪からは滴が落ちていた。 「どうしたの?」 「だって、急に帰るから……」 「帰って欲しそうに見えたのよ」  ヒサが言うと、ヨウは酷く悲しそうな、いたたまれないような表情になった。ヒサはゆっくりとヨウに近付いた。 「髪ぐらい拭けばいいのに」 「そうだね……」  そう言って俯く彼は、まるで少年のように幼く小さく見えた。  ヒサは手を伸ばす。深淵に沈む彼が仰向いてこちらに両手を伸ばしているように見える。彼はきっとそこに居続けるのかもしれない。だが時折目を開いた時に、傍らに誰かが降りている事を知ってくれれば良い。 「私、明日も休みなの」  ヒサはヨウと手を繋ぐ。足はスカイブルーの外壁を持つ海に向かう。 「そっか……」 「それだけ?」  ヒサが言うと、ヨウは初めて屈託のない笑顔で答えた。 「腹減った」 「私も腹減った」  二人は笑った。木々の騒めきは音を潜め、暗闇に繰り返す穏やかな波のように優しく響き続けた。
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