食す

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食す

 ヨウはヒサを後ろから抱く形で、湯船に浸かっていた。ヒサは完全にこちらに身体を預けるように凭れ、ヨウの手を取って触ったり指を絡ませたりしている。 「それでその人とはどうなったの?」 「どうって、契約みたいなもんだから、資格が取れた時点で終了」  プロダイバーの資格を取った時の話から派生して、実技以外に金銭の工面に相当な困難を要したという話になった時、その時に所謂パトロンとして援助を貰っていた女性の事を明け透けに話すこととなった。  引越しの為に三日の休みを取ったヒサだったが、人を究極のミニマリストと揶揄する割に、彼女自身荷物という荷物は持っていなかった。ヨウは二階の押入を全て開け、その他の家具類の設置場所をあれこれ考えたが、本人は用途が重なるような雑貨は全て処分したようで、軽トラの荷台にはレトロなダイニングテーブルと椅子、衣類ケースが数個と数える程度の段ボールだけだった。元々祖母の桐箪笥だけが置かれた二階の押し入れに、それらはきっちりと収まり、テーブルは椅子を一脚足してこれ迄と同じく食卓としてリビングの一角に置かれることとなった。同棲と言うには余りにも代わり映えのしない風景だった為、ヨウは椅子一脚を買い足すついでに、リサイクルショップでヒサが好みそうなガラス扉付きの本棚を購入して彼女に送った。それが昨日のことである。  片付けはあっという間に終わり、諸々の手続きも事前に粗方済ませていたようで、後はおいおい進めるのだとテーブルに座って手帳を付けているヒサを風呂に誘ったのがつい先程の事だった。  湯気を通して陽の差し込んでくる明るい浴室で、のんびりと汗を流し、二日間の疲れを取るという予定だったのだが、会話の趣旨をどこで間違えたのか、自分の過去の話になってしまった。話す事は別に構わないのだが、決して讃えられるべきものでは無い部分も多い。今がまさにその最中だった。 「お互いドライな関係ってやつ?」 「うん、それはそう。確約があって」 「どんな?」  興味津々と言った様子で振り返る彼女に困惑しながらも話を続ける。 「お互いのプライベートには一切干渉しない。会うのは教室のある夜だけで、お互いの家には行かない。連絡先は一切交換しない。援助は資格取得の諸経費のみ。資格取得、若しくは勤務先が変われば即終了」 「決まり悪そう」  ヒサが笑うので何故かと問うと、首の後ろを触っているからだと答える。自覚していなかった癖であるだけに、ヨウは苦笑した。  沖縄を拠点にダイビングを続けていた頃、ヨウが日々の暮らしにも事欠くような状態だった事を哀れんだのか、当時スクールの生徒であった女性から資格取得の為の金銭援助を申し出られた。海外赴任が長い夫の不在時に、どうしても人肌が恋しいと言うその女性は夫の仕事柄裕福で、子供も居らず、特にダイビング以外に贅を尽くすような趣味なども持たない為、才能ある人間に投資する事が唯一の楽しみなのだと言っていた。生活に困窮していたヨウは、多少の罪悪感を感じながらもその話に乗った。誰よりも早くプロとしての資格を取る事が目標だった為、互いの利益が合致しただけの事だと割り切ったのだ。見返りは週一回のセックスのみ。だがパトロンである彼女を悦ばせる事が条件であるから、必然的に奉仕する技術は磨かれた。相手に合わせてセックスをするという事が極普通に出来るようになったのは、確実に彼女との契約のおかげである。 「ヤキモチ焼かないんだ」  ヨウが言うと、ヒサは即答で返す。 「焼くに決まってるでしょ?でも今私が最高のセックスを味わえるのは、その人のおかげ。ヨウがプロになれたのもそう」 「合理的だね」 「感謝よ。女にとって感度のいいセックスを味わえるのは幸福以外の何者でも無いの」  ヒサはこちらに向き直り、啄むようなキスを数回繰り返しながら言った。 「それは男も同じだよ」 「毎回絶頂してる?」 「絶頂だね」  ヨウの答えに、ヒサは満足気に笑う。 「今迄に何本食べた?」  ヨウが笑顔のまま聞くと、ヒサはわざとらしくふいと視線を右上に逸らした。 「……ヨウが初めて?」 「嘘つけ!」  ヨウは浴槽の湯を盛大に浴びせて笑った。ヒサが嬉々とした悲鳴を上げる。湯を避けようとして伸ばした手を取り、こちらへ引き戻して胸に納めようとするが、ヒサは身を捩って逃げた。 「本当は何本?」 「気になるの?」 「なるよ」  ヒサは急に真顔になった。そのまま首に手を回してくる。 「そんなに何本もは知らない。でも自分で食べたいと思ったのはヨウだけ」  揺れる瞳を見つめながら、二人は唇を重ね合った。    ベッドヘッドに寄りかかるヨウの脚の間で、ヒサの小さな形の良い頭部が揺れる。啄ばむようなキスを繰り返し、先端を唇で挟むように舌先で突かれると、ヨウのものは忽ちに熱を帯びて硬度を増す。笠の部分まで口に含み、唇を窄めるようにねっとりと刺激され、ヨウは堪らず吐息を漏らした。 「はぁ……」 「良い?」  上目遣いに聞いてくるヒサの前髪を掻き分け、形の良い額を撫でる。 「すごく良い」  ヒサはそのまま屹立するものを深く咥え込む。柔らかな舌が反った裏側を舐め上げている。  ヒサは上手い方だと思う。けれど玄人のようなテクニックを持つ訳ではない。ただ何故かヒサに口での刺激を与えられると、必ずと言っていい程一回はそれで果ててしまう。口淫を好む男は多いし、それは征服欲の表れだという意見も多いが、ヨウからすれば寧ろヒサに陵辱されている気持ちになるのが常だった。ただそれは嫌悪ではなく、自分の中の穢れのような部分を拭い去る神聖な儀式のような気がしていた。    見る間に充血して反り上がる欲を丁寧に舐め上げながら、時折陰嚢を口に含む。きゅっと強く吸われる感触に、ヨウの内腿が震える。やがて喉奥に当たる程に咥え込んで上下の摩擦を始めると、快楽の波は一気にやって来た。ぬらぬらとした睡液と蠢く生温かい舌の感触は、ヒサ自身に押し入る時とは全く違う快楽だ。 「ヒサ……出ちゃうよ」  彼女の頭を撫でながら言うと、ヒサは吸い上げるように先端から漏れる液まで舐めとった。 「出してよ」 「ヒサの中で出したい」  そう言うとヒサは不敵に笑い、やおら勢いを付けてそれを握った手を上下させる。更に涎を垂らすように滑る先端を舌先で刺激し、ヨウの下腹が急に震え出したのを見て、笠部分までを口内に収めて小刻みに刺激を繰り返す。 「ダメだって、出るって……!」  そう言った瞬間ヨウの体はわななき、その熱塊は一気にヒサの口内へ流れ込んだ。彼女はいつもその寸前で口を離すのだが、今日は珍しくその全てを飲み込んだ。 「飲んだの……?」  一気に弛緩する体に沈むように、心地よい倦怠感に身を任せながら彼女に問うと、ヒサは無言のまま微笑んで、自分の上に覆い被さって来た。 「たまにはいいでしょう?」 「攻守交替?」 「そう、今日の私は痴女なの」  ヒサの言葉にヨウは笑った。だが確かに今は直ぐに動けそうに無いし、彼女から受ける快楽がどのようなものかの興味はあった。 「どうして欲しい?」  耳元で囁かれる艶のあるアルトの声は、それだけで背筋を引っ掻かれるような感覚を覚える。 「もっと食べる?」 「入りたい……」  ヨウが言うと、ヒサはすんなりと細長い白い足をヨウの肢体に絡ませるように跨って来た。収まるべき器官を求めて、ヨウの腰は蠢く。 「まだダメよ」  言いながら反応し始めたそこに、彼女自身を擦り付けてくる。彼女のそこは既にしっとりと濡れていて、前後に動く度に互いの粘液が混ざり合う音が響いた。 ヒサはヨウの手をベッドに押さえつける様にして指を搦める。 「イイ?」 「うん、凄くイイ」 「入りたい?」 「入りたい」 ヨウが答えても、ヒサは動きを止めることなくただ黙ってこちらを見下ろしている。艶を放ちながらも、体温を感じさせない冷めた視線に見つめられ、ヨウは粟立つような寒気を感じた。 「俺を犯すの?」 「そうよ」 そう言うとヒサは、ヨウの口内を蹂躙するようなキスを落としてきた。 「ん……ふっ」  思わず吐息が漏れる。今さっきまで自分のものを咥えていた唇が、今度はヨウの唇や舌を舐り吸い上げる。首筋から耳朶を掠め、顎からまた唇へ。烟るような彼女の吐息がヨウの身体を這いまわった。 「ヒサ……入りたいよ」 「ダメ」  言いながら胸の尖りに吸いつかれ、ヨウは思わず「あっ」という声を漏らした。 「いい声……もっと濡れるわ」  ヒサは執拗に両方の突起を責めた。とろりと自分の先端から体液が糸を引いて落ちるのが分かった。仰け反る首筋に軽く歯を当て、吸い付く。いつの間にこんなセックスを覚えたのかと思う程、今日の彼女は大胆で卑猥だった。    ヒサはやがて腰を浮かせ、完全に屹立したヨウ自身を、器用に自分の中に埋めていった。 「ああ……熱い」  みしみしと締め付ける狭隘な肉襞を掻き分けるようにそれは吸い込まれていく。奥へ奥へと誘うように全てが埋められると、ヒサはその先端を自分の一番良い部分に押し当てて、揺らすように腰をうねらせ始めた。まるでフリーダイバーがゆっくりと浮上するようにしなやかな動きだ。彼女の中心に吸い上げられるように、締め付けと弛緩が繰り返される。なんて美しく猥雑さに満ちた人魚なのだろう。室内の紺青に染められて、青い人魚は粘るようにうねり、ヨウを責める。 「凄くいい、もっと……」  自然と漏れたこの言葉に、ヒサは艶然と微笑んだ。 しなる腰は一定のリズムをもって動き続ける。ヒサの身体は既に汗を纏っていて、それが首筋から胸元を伝い、パタパタとヨウの身体に落ちた。 「大きくなったわ」  ヒサは自分の下腹に触れ、満足気にそう言って、その背を少し反り始めた。 「ああ……イイ」  軽く揺れ始める胸を触ろうとすると、ヒサがそれを制する。 「ダメよ、触らせない」  言ってまた唇を奪う。同時に胸の突起を摘まれ、ヨウは大きく喘いだ。ヒサの全身が自分を侵す。まるで大きな渦に巻き込まれるようにヒサの快楽に呑まれる。 「ヒサ、もうダメ、我慢できない」  自分が何の余裕も持たないことを証明するかのように、その声は羞恥する程に上擦っていた。 「悪い子ね。こんなに大きくなって私の中を掻き回しているのに」  ヒサはヨウの手を取って、指を絡ませる。律動のピッチが早くなり、動きは上下の擦り上げに変わる。ヒサ自身から溢れる水の滑りがヨウに纏わり付き、器官全体が膨張する欲を絞めながら摩擦する。 「あっ……あ……」  女性のようなよがり声が漏れるが、それを理性で抑える事は既に不可能だった。意識が飛びそうだ。目の前が白く煙始める。 「ヒサ……ヒサ……」  ヨウは無意識に上で揺れ続ける人魚の名を呼んだ。絡ませた指から汗が滴る。暴発寸前まで追い込まれた欲は、彼女の思うままにその中で揺さぶられ、一際再奥に届いた瞬間、勢いよく吐精した。 「ああ……!」  ヨウはその背を反らせ喘ぐ。脈動と共に押し出される白濁の吐液は、搾り取られるように彼女の奥に吸い込まれ、その繋がりを解かないまま濡れた身体でヨウの上に倒れ込んで来た身体は、小刻みに痙攣していた。  星が落ちるような浮遊感にとらわれ、その後二人は暫く言葉を発する事もできずに荒い息を繰り返した。  ゆるゆると手を解き、未だ震えるヒサの肢体を抱きしめる。彼女の短い髪から落ちる汗が、開かれたままの自分の口につうと入って来た。それは彼女を攻める時に味わう体液の味に似ていた。 「絶頂……?」  息を荒げたままの気怠げなヒサの声がする。ヨウは返事の代わりにヒサの身体を抱く腕に力を込めた。  ヒサがゆっくりと繋がりを解く。その奥処から栓が外れたように吐液が溢れ出すのが分かる。力尽きたように横に転がるヒサを抱き寄せ自分に密着させると、その目は虚ろで、半ば意識が飛んでいるように見えた。  彼女が快楽に対して貪欲である事は知っていたが、奔放かと言えば、また別の話だ。それを知っているからこそ、今回の彼女の行動が如何に労力を要することだったかの想像は難しくない。許容と快楽で囚われる心地良さは、今迄他の誰からも与えられなかった甘い檻だった。 「ヒサ……聞こえてる?」  ヨウの言葉にヒサは反応しなかった。 「好きだよ」  囁くように耳元で告げると、ヒサの半開きの口が僅かに微笑んだように見えた。    随分と長い午睡を取った後、猛烈な空腹を覚えた二人だったが、何かを準備するという意識が完全に失せてしまい、結局は外食を選ぶ事となった。コンビニでも良かったのだが、街の川沿いに遅くまで開いているカフェがあると知っていたので、簡単に汗を流した後二人は車でそこへ向かった。  夕食時はとうに過ぎていたが、そう広くない店内はどのテーブルも埋まっていて、二人は川沿いの景色が見えるテラス席へと案内された。暗い川面に映る朧げな外灯の光が流れに揺れて、時折心地良い風が吹く。昼間はまだ真夏の気温だが、ここは既に秋の気配が漂っていた。  ヒサは未だ疲れが抜けないのか、椅子に凭れ、黙って暗い流れを見つめている。 「疲れた?」  ケールサラダを取り分けながら聞くと、ヒサは「大丈夫」と言った。皿を渡すと、周りに誰も居ないのをいい事に、ヒサはわざとらしくしなしなと普段より高い声音を出す。 「紳士~有難う」 「男は気遣いと腰使いなんだろ?」  以前から好きだという女流作家の言葉を放ると、ヒサはその肩を揺らして可笑しそうにフフと笑った。おそらく気恥しさが抜けないのだろう。ならばこちらも素知らぬ振りをするしかない。  ナッツの降りかかったサラダを口にすると、ヒサは咀嚼する口元を隠しながら感動したように言った。 「これ美味しい」 「うん、美味いね。オイルが良いのかな」  岩塩と黒酢、アーモンドオイルのようなさっぱりしたドレッシングは確かに美味かった。改めて気付いたが、二人の味覚の好みはとても似ていた。好きな物は違っても、味付けや濃い薄いまでよく似ている。味覚の合致は、パートナーとしての重要事項であると思う。よく笑いのツボが同じ方が良いなどと聞くが、ヨウとしては、それよりも味覚は重要視するべき案件だと思う。  心地良い疲労感と共に体内に摂り入れる美味い夕食は、染み入るように正に五臓六腑に行き渡る。この幸福感も一つの快楽だと感じる。  サラダで食欲のスイッチが入ったのか、ヒサはディナープレートの他にも4種のチーズが乗ったピザが食べたいと言い始めた。美味しい物を少量ずつ食べたいと言う普段のヒサからは珍しい申し出に、ヨウは何故だか嬉しくなる。 「じゃあ半分ずつ食べよう」 「でも食べ切れないかも」 「その時は持って帰れば良いよ」  正直なところ、食べる事に興味がある訳では無い。単純によりディープなセックスをした後に、猛然と食欲を増進させるヒサの姿を見たかったのだ。 「俺は飲まないけど、ワイン頼んだら?白のスパークリングがあるよ」  メニューをめくりながら言うと、ヒサは怪訝な表情をした。 「なあに?今まで言ったこと無いのに」 「ヒサの食べてるところが見たいんだよ」  店員を呼び、勝手に白ワインを頼む。 「明日出勤なのよ?」  呆れたように言う彼女に、ヨウは近付いてテーブルに腕を付く。 「ねえ、気になってる事があるんだけど」  ヒサは不思議そうに顔を寄せる。 「俺最近避妊してないよね」  最初の頃はコンドームを着ける事を欠かしたことは無かった。今でも準備はしているが、ヒサは最近そのまま果てる事を好む。リスクで言えば女性の方が甚大であるし、ヨウとしては彼女に負担を負わせる事を黙認したくは無いと思っている。だが実際行為を始めると、最近はそれすら飛んでしまいがちだ。一度きちんと確認しなければと思っていた。今それを話すのが正解かどうかは別として、そういう部分の妙な馴れ合いは、ヨウの望むところでは無い。だがヒサは「なんだ」という雰囲気で、また背もたれに身を預けた。 「私今ピル飲んでるのよ」  その名前は聞いた事がある。それこそパトロンになっていた女性が、妊娠を避けるために飲んでいた薬だ。しかしそれでもヨウは必ずコンドームを着けたし、今迄に関係を持った相手に対しても同様だった。 「それでも100%じゃないだろ?」 「コンドームよりも避妊率は高いのよ。だって排卵しないんだもの」  ヒサは運ばれてきたワインを口に含む。グラスを静かに置くと、頬杖を着いてこちらを見る。 「でも誤解しないでね。正確には避妊だけが目的じゃない。私人より生理痛や排卵痛が重いのよ。本当に動けないくらい。だから一緒に暮らすって決めた時からずっと飲んでるの。せっかく一緒に居るのに、その度に不機嫌爆発のパートナーなんて萎えるでしょ?」 「萎えるって……それは仕方の無いことだから、別に気にしないよ」  自分が器量の狭い男だと指摘されている気がして、ヨウは不服を申し立てた。女性の気分の変動についての知識や扱いは、これでも一応心得ているつもりだ。 「そう言うと思ったから、飲んでるの」  ヒサはまたグラスを煽る。 「ヨウは優しいから、多分何も言わないし気も遣ってくれる。でもそれは私が嫌なの。二人で楽しくしていたいのよ」  ヒサはそう言うと、さらに付け足した。 「コンドーム付けてくれるなら凄く有難いけど、でも私は正直ナマのヨウも大好き」 「もう帰る?」  ヨウが言うと、ヒサは可笑しそうに笑った。少し酔いが回ってきたのかもしれない。    運ばれてきたピザはチーズがたっぷりとかかった、中々のボリュームのものだった。生地は薄く、端はカリカリに焼けている。ヨウはそれを四等分に分け、一つを食べやすいサイズに折り畳んでヒサの口元に寄せた。  ヒサは意味深に笑って、迎え舌で、落ちたチーズを舐め上げるように口に入れる。普段の彼女ならば絶対にしない行動だ。口の端に落ちた蕩けたチーズの糸が妙に卑猥に見える。ヨウがそれを自分の舌と唇ですくい取ると、ヒサは満足気に微笑んだ。 「私達、映画の中にいるみたいね」  恋愛映画は二人の男女を中心に世界が回る。他に客のいないテラス席は、今は確かに二人だけのものだった。  ヒサは半分のピザをペロリと平らげ、ワインをもう一杯頼んだ。これまで他人と食事する事が少なかったヨウは、何時でもその度に違和感すら覚えたものだが、ヒサといるとそれすら溶けるような快楽に変わる。彼女が何かを懸命に咀嚼し、飲み下すのを見るのは、否応に自分のものをゆっくりと味わうベッドの上のヒサの姿と重なる。  歪んでいる、と思う。だが自分は知らないうちにヒサに囚われて、昼間の情事のように甘く侵食されていく。足りない何かを埋めるように、ヒサの全てを求め始めている自分に気付きながら、ヨウはすうっと血の気が引くような、瞬間的に微かな慄きを感じた。それは今ままで延々と続けてきた、自分の価値観だけで生きる好き勝手な生活の枠を崩されるという嫌悪感ではなく、自分自身のヒサへの過剰な依存心の芽生えに対する恐怖だった。    深淵から青い空を見上げて来た。彼女はいつの間にかそこに根を張ってしなやかに波に揺れる美しいウミユリのようだった。あれが欲しいと願ったのは、何時からの事だろう。 「そろそろ帰ろう」  ヒサは最後に一口レモン水を口に含むとそう言った。  会計を済ませ、駐車場へ降りる階段でヒサは少しよろけた。咄嗟に腕を取って支えたが、ヒサは機嫌良く笑っただけだった。そのまま車に乗り込み、二人の家へ向かう。車で十五分程度の距離だが、その僅かな時間の間に、ヒサの瞼は既に閉じそうになっていた。スロープ状になったコンクリに乗り上げ到着すると、ヨウは先ず助手席側に周って扉を開けた。  億劫そうに体を起こすヒサの手を取り、先に家の中へ促す。車と玄関の施錠を確認した後リビングへ行くと、ソファの一番端に丸まって膝を抱えるヒサの姿があった。ヨウがグラスに注いだ水を目の前に差し出すと、ヒサは膝を抱えたままそれを受け取る。 「酔った?」  ヒサは親指と人差し指で少しだけというサインを見せた。 「あとは歯を磨いて寝るだけ。なんて贅沢な一日」 「シーツも変えたし」 「それはとても重要」  ヒサは大きく頷きながら尤もらしく答える。しかしやはり眠気には勝てないらしい。半目を開けてはいるが、今にも閉じてしまいそうだ。ヨウは少しだけ意地悪をしたくなった。自分のスマホからナット・キング・コールのLOVEを流し、本棚の上のワイヤレスのスピーカーの音量をほんの少しだけ上げる。不思議そうな顔をするヒサの手を取り、ソファから引き剥がすように立たせると、そのままチークダンスのように頬を寄せた。  ヒサは驚いたようだった。閉じかけていた目が今は大きく開いている。 「踊れるの?」 「少しだけ。婆ちゃんが好きでさ」  祖母は今思えばハイカラな女性だったと思う。亡くなる寸前まで様々な洋楽を聴き、この曲が流れると必ずヨウをダンスに誘った。気恥ずかしくて嫌々ながらも一緒に踊った温かい手の感触は、未だにヨウの感覚の中に深く刻まれている。 「素敵なお祖母様。でも私ステップ知らないわ」  言いながらヒサは体を預けてくる。 「適当で良いんだよ。楽しければOK」 「なんてロマンティックな夜なの」  ヒサはそう言ってヨウの首に手を回すと、楽しそうに笑った。小気味好いステップに不意打ちでターンを繰り返すと、更にはしゃぐような笑い声を上げる。  こうして過ごしていられるのは何時までだろう。ヨウは慢性的にそういう事を考える癖がある。ヒサに対しても同じだ。特に彼女には今迄の誰よりも自身が執着している。だがいつか彼女が離れて行く事を、自分はきっと止める事は出来ないのだろうとも思う。あの時と同じように。あの長い髪が揺れるのを見送るように。  不意にヒサの手が頬に触れた。 「どうして泣いているの?」  ヨウの顎から水が落ちた。何がそうさせたのか分からず、ヨウは焦った。 「何でかな。ごめん、俺……」  頬に落ちる水を乱雑に拭こうとすると、ヒサがそれを制した。彼女はそのまま再度身を預けるように、そのしなやかな両手でヨウを包んだ。まるで子供を抱いてあやすように、ゆっくりと背後の音楽に乗る事を続ける。目が熱い。視界はあっという間に滲み始める。ヒサはヨウの背をゆっくりと撫でながら揺れ続ける。 「大好きよ、ヨウ。大好き」  耳元の穏やかな囁きに、ヨウは思わず声を詰まらせた。何かの箍が外れたように涙が溢れ出す。 “L”は君が僕を見つめるための言葉 “O”は僕の目に映る唯一の君 “V”はそれはとても特別な “E”は君が思う誰よりもずっと 愛は僕が君に捧げられる全て 愛は遊びなんかじゃない 心通じ合う二人は大丈夫 僕のこの思いを受け止めて そしてそれを壊さないで 愛は君と僕のためのものだから 愛は君と僕のためのものだから  繰り返される懐かしい曲を聴きながら、二人はいつまでも互いを抱きしめ合い揺れ続け た。 参考:ナット・キング・コール 『 L-O-V-E 』 (Milt Gabler/Bert Kaempfert)  
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