香る

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香る

 開け放った窓からは、秋のさらさらとした風と共に、隣家に咲き誇っている金木犀の強い香りが流れ込んで来る。初冬に入る前、ひと時にだけ香る密やかな甘い芳香である。  ヒサはこの香りがとても気に入っているらしく、本降りの雨の日以外はリビングの掃き出し窓を開けたがる。この季節特有の、移ろい易い天気の狭間を確実に押さえる為の戦いだと笑う。    彼女自身が纏う香りは季節や気分によって変わるが、それは香水では無くボディークリームのような密やかな香りが多い。だが通年でジャスミンや金木犀、それにサンダルウッドのようなオリエンタルな香りを好んでいるように思う。この季節の部屋の空気を持ち歩きたいと呟いていたが、実際この部屋に香りという存在が現れたのは、彼女がここに越して来てからの事だ。  彼女は古い木や、丁寧に生活している場所にだけ発生する香りがあるのだと言う。古い建物であるから、カビの臭いではないかと茶化すと、彼女は真剣に違うと言い張った。    ヒサは香りというものに非常に敏感な女性だった。部屋に流れ込んで来る空気の香りで、数時間後に降る雨の事を予測したりするのだから驚きだ。だから市販の安い香料などは、プラスチックの臭いがすると言って毛嫌いする。強すぎる香りも苦手で、香水はおろか洗剤や柔軟剤の類も受け付けない。彼女の持論によれば、香りは自然に発生するものであり、またそれらが身の回りにいつの間にか溶け込んでいるのが一番良いと言う。自分には到底計り知れない世界を感じ取っている彼女にとって、自分が香りというカテゴリの中で、どういった存在であるのか聞いてみたくもあり、敢えて知りたくないという気持ちもある。 「あ、雨が来そう」  ヨウにとって久し振りの休日の正午前、大きく開け放していた窓際に寄り、身を乗り出すようにヒサはそう言った。庭に干してある洗濯物を取りに走った後、三十分もしないうちに雨粒が落ち始める。空はまだ明るかった。 「なんで分かるんだろう」  ヨウが言うと、ヒサは笑って窓を閉めた。 「なんでだろう」 「屋根があるからそんなに急がなくても大丈夫だよ」 「でも湿気ちゃうから」  ヒサはそのまま浴室へ入っていった。  ヨウは後を追い、ヒサの要望で取り付けた物干しロープを引き出すと対面の壁に渡す。二人でシーツや衣類を掛けると、浴室は忽ちに垂れ下がる布の群れに覆われた。まだ湿気を含んだそれらは、そのまま雨を取り込んだかのような錯覚を起こさせる。雨音は次第に強さを増し、いつしか空は低く沈んでいった。    軽い昼食をいつも通りテーブルで済ませ、午後からはリビングのソファでコーヒーを飲みながら、時折会話して好きに過ごした。ヒサが読みかけの本を手に取ったので、それからは頻繁に声を掛ける事は憚った。  互いになんとなく相手のペースや、不可侵である領域の範囲も解ってきた。彼女が本を読むのは日常的な事であったが、休日の午後は特に集中する事が多い。そんな時は自分もただ静かに時を過ごす。逆に自分が絵を描き始めると、彼女は時折お茶やコーヒーを淹れて傍に置いていくだけで、それ以外は見事な程に気配を消す事が常だった。  リビングは夕刻のように薄暗くなり、ヨウはソファでシャガールの画集を広げながら、雨粒が古いガラス窓に当たる音を聞いていた。ふと傍を見ると、既に微睡始めているヒサの姿があった。すんなりと伸びた白い脚先から、雨に濡れた瑞々しい金木犀の香りが漂う気がする。彼女の艶はこの手足と白い肌の美しさにあると思う。もう少し肉が付いても良いとは思うが、この華奢な体を自分の中に包む事が至福でもあった。 「ヒサ」  返事は無かった。彼女はきっちりと脚を揃えたまま俯向くようにソファに体を預けている。膝の上には開かれたままの本が所在無げに置かれていた。そう言えば彼女はよく眠る。ヨウは静かに彼女の本を取ろうと手を伸ばした。だがその手が触れるか触れないかの瞬間に、ヒサの口から薄く言葉が漏れた。 「読んでるのよ」 「寝てたじゃん」 「違う、起きてた」 「そうだね」  こういう時のヒサは頑なだ。ヨウは背もたれに掛けてあったブランケットを取り、彼女の首から下を覆うように掛けてやった。ヒサは何も言わずにそのままソファに寝転んだ。見えていた脚が、ブランケットの中に収まるようにするりと消えていった。部屋の中に漂っていた雨の気配は、突如として霧散してしまった。 「ヨウの匂いがする」  芋虫のようになった天辺辺りから、少しかすれたヒサの声がした。 「どんな匂い?」  聞くと、ヒサはよく聞き取れない程の小さな声で「教えない」と言った。多分睡魔が勝っているのだろう。このまま午睡へ入るのはもう時間の問題だ。  夕暮れのように暗い室内に雨音だけが響き、ヨウは取り残されたように、ただ沈黙したまま、ソファを独り占めする恋人の微睡を見守るしか無かった。 「ねえ……俺はどんな匂い?」  囁くように埋もれる肩先を撫で、問うてみる。肌触りの良いブランケットは、彼女がこの部屋に持ち込んだ数少ない私物の一つであり、今はすっかり二人の共有物として頻繁に利用されている。自分の匂いがすると言ったこのブランケットにも、彼女の香りは仄かに漂っていた。 「ヒサの香りは、何だろう。海に咲く花の香りかな……」  ヨウの言葉に、ヒサの返答は無かった。静かな寝息が立っている。この部屋全体が呼吸しているようだった。呼吸はやがてヨウの心音と重なり合うようにリンクしていく。この小さな室内は普遍の外界から隔てられた二人だけの空間だった。    ヒサを初めて招く前に買ったL字型のソファは、ブルーのベロアが心地良い気に入りの品だ。ヨウは彼女の頭部に鼻先を添わせるように、自分もそこに横たわった。まだ新品と言えるそれにも、既に彼女とこの部屋の香りは移っている。全てが彼女に同化してしまえばいい。この部屋を飲み込むように、あの瑞々しく繁る金木犀のようにこの部屋に散り敷いて、それが無ければ呼吸さえままならぬ程にヨウの中に入り込んで来て欲しい。自由さえ奪うように降り注ぐ花の中に埋もれて、初めて自分は自由を得る事ができる。今が不自由な訳では無い。だが寄る辺を持たないヨウにとって、これまでの自由は最早、絶望的な不安を伴う不自由でしか無かった。  ヨウは目を閉じる。目の前で好き勝手な方向に向いているヒサの髪を撫でる。室内の光量が乏しくなるのと同時に、ヨウもまた現実と夢想の狭間に落ちていった。    こぽこぽと泡の爆ぜるような音がする。正確には音ではない。振動のようなものが体を包みながら揺らす。ここは水の中だ。朧げな光が届くだけの、紺青に染められた海に沈んでいる。見渡す限り続く青の世界に、ヨウはただ一人揺蕩っていた。その傍らには揺れる白い花が一輪咲いている。ふと気が付くと、ひらひらと何かが舞い落ちてくる。金色の小さな花弁が一つ、二つ、最初は数えられる程度だったが、やがてそれは雨のように無数に落ちて、辺りを金に染めていった。噎せるような甘い香りに包まれて、ヨウは更に深い海へ沈む。花弁が舞い落ちるその先に何があるのかは分からなかったが、恐ろしいという感覚は無かった。底とも上とも分からぬ水の中に沈みながら、ただ幸福感に満ちて漂っていた。だがその瞬間、より深い水底から黒い影が沸き上がる。糸のようなそれが人の髪の毛だと気付いたのは、全身を絡め取られた後だった。凄まじい力で巻き取られ、争う暇もなく暗黒へ引き摺り込まれる。最後に見た金色の雨は、まだ陽の当たる青の中でヒラヒラと舞い続けていた。だがその先に白い花の姿は無く、引き千切られたような残骸らしきものだけがフワフワと浮いていた。ヨウはそれを見た瞬間、雄叫びのような悲鳴を上げた。だがいくら叫んでも空気の漏れるような音だけが脳内に響き、伸ばした手先にまで黒い影はこびりつくように絡まっていた。 ……ウ、ヨウ……!  聞き覚えのある声が響いた瞬間、ヨウの体はびくりと震えた。現実に引き戻されて飛び起きた自身は汗だくで、酷い体の痛みと倦怠感に苛まれた。手が震えている。 「……今何時?」  体を起こし、顔を覆うようにして肘をつく。 「まだ5時前よ。酷くうなされてたわ」 「大丈夫……」  そうは言ったが嫌な感じがした。この夢は初めてでは無い。突如として現れて、その後必ずと言って良い程高熱を出す。今回もその感覚があった。だが最後のあれだけは、今回が初めてだった。今更何故、そんな思いが巡る。  ヒサはすぐさま自分のブランケットでヨウを包むと、手早く着替えを纏めて持ってきた。 「お湯で拭いてあげる。着替えたらゆっくり休んで」  そう言ってその場を立とうとするヒサの腕を、ヨウはしっかりと掴んだ。 「いいから、暫く傍にいて」 「でも酷い汗よ。早く拭かないと」 「傍にいてよ!」  この腕を離した瞬間から彼女が消えてしまいそうな気がして、ヨウは必死でヒサの腕を掴んだ。 「どこにも行かないわ。落ち着いて」  戸惑うように顔を覗き込む彼女を、そのまま抱き寄せる。掴んだ彼女の手首は僅かに赤くなっていた。 「こんなに身体が熱いのに、震えてるの?」 「怖いんだ」  手の中にある温かな体温を感じて、ヨウは脱力する。脳裏にはまだ黒い影がある。二人を絡め取ろうと待ち構えている。目の前が暗くなり、ヨウの意識はそこで飛んだ。ヒサの香りはまだそこに揺らいでいた。    気が付くと薄暗いリビングの天井が見えた。どうやらソファに寝ているらしい。途端に頬に軽い痛みが走った。 「ヨウ?気が付いた?」  ヒサの手がヨウの頬を叩いている。余りに何回も叩くので、ヨウは苦笑してそれを制した。 「大丈夫だよ……」 「でも酷い熱よ。病院行かなきゃ」  ヒサは泣きそうな目をしていた。ゆっくりと起き上がる。既に熱が上がっているらしい。妙に辺りがふわふわとして、急に気圧が変わった時のように耳の奥に何かが詰まったような感じがする。 「本当に大丈夫だよ。たまにあるんだ。もう慣れてる」  ヨウの言葉でヒサは何かを察したらしい。その目は酷く哀し気に見えた。 「心配しなくても定期的に病院には行ってるよ。仕事に支障は無いし、毎年診断書も貰ってる」  ダイバーのような人命に関わる仕事に携わる人間にとって、ストレスからの悪夢や不眠は珍しい事では無い。仲間内でもこの手の症状を抱える人間はいくらでもいる。だがこの悪夢がそれだけでは無いことを、誰よりも自分が承知していた。 「とにかく着替えないと」  ヒサが言う。確かに水を被ったように濡れた体は酷く気持ちが悪かった。ヨウはふらつきながらも立ち上がる。シャワーを浴びたいと伝えると、ヒサは一瞬口を開きかけたが、今の自分が何かを聞き入れる状態ではない事を悟ったのか、無言のまま諦めたように後をついてきた。 「一緒に入る?」 「監視よ」  ヒサはつんとして言い放った。  浴室に座り、肩からバスタオルを羽織る形で首の後ろに熱いシャワーを浴びせられる。こうすると体を冷やさないのだと彼女は言う。簡単に体を洗い汗を流し切ると、ヒサは直ぐに浴室からヨウを追い立てた。乾いたバスタオルで入念に体を拭いて着替え、リビングに戻ると、ソファの上には新しい真冬用のブランケットが用意されていた。ヒサはそれでヨウを洲巻にする程にくるみ、容赦なく額に解熱シートを貼り付ける。 「薬飲む前に何か食べないと」 「食欲無いな……」  自分でも情けない程にか細い声だった。ヒサは「待ってて」と言ってキッチンに立つと、ガラスの皿にシロップで煮たリンゴを乗せて持ってきた。 「昨日生姜のシロップで煮たの。生をすりおろしてもいいんだけど、今はこっちの方が甘くて食べやすいと思って」  目の前に置かれた細めの櫛形に切られたそれは、薄く透き通って、見るからに瑞々しく、熱を持つ身体には有難いデザートだった。 「美味しそう」  フォークを入れるとさくりと簡単に切る事ができる。淡く生姜の風味が効いて、甘いながらもさっぱりとした後口だ。一緒に沿えてあるクコの実独特のほんのりとした酸味もよく合っていて、これもまたいつまでも食べられる優しい味わいである。これらの食べ物が放つ香りもまた、ヒサがもたらす癒しそのものだった。  これがいつか消えてしまったら、その時自分はどうなってしまうのだろう。つい先程見た恐ろしい夢のように、自分の精神の弱さが、彼女の全てをダメにしてしまうような気がして、不安だけが澱のようにつのってゆく。初めて自分から他人を求めた結果、胸を掻き毟るような苦悩が待っているとは思わなかった。 「ため息」  ヒサが頬を突ついてくる。ヨウが食べ終わった皿を台に置くと、ヒサはヨウの前に座り、きちんと居住まいを正した。 「何か悩んでる?」 「……テレビを買おうかと思って」  ヨウの言葉に、ヒサは一瞬眉根を寄せたが、即答で「却下」と言った。 「何で。二人で映画観れるよ」 「絶対ダメ。この家に雑音は要らないの」 「音楽は良いのに?」  ヒサは食器を片付けながら「それは別」と言った。 「茶化す余裕があるならさっさと歯を磨いて」   少し怒ったようにその場を後にする彼女は、自分が話をはぐらかした事を完全に把握していると感じた。    ヨウは言われた通りに席を立ち洗面所へ入る。緑のカエルの居る洗面台に向かい、無心に歯を磨く。白い目地は未だにきちんと保たれている。古い思い出の残るこの家を、ヒサは好きだと言った。ヨウは温もりと傷が同居するこの家の事が好きになれなかったが、それでもヒサを通じて自分が受けてきたあらゆる温情に気付く事は多かった。吐き出した泡と一緒に何かが溶けるように流されていく。深い傷から流れ出す血潮さえ、その小さな渦に揉まれて消えてくれればと思う。  居間に戻るとヒサの姿は無く、ヨウは彼女の気配を追うように二階へ上がる。ヒサはベッドにタオル地の敷パットを掛けていて、ヨウの姿を見るなり引き倒すようにベッドの上に押しやった。ベッド脇に置かれたスタンドの横には、既に白湯入りのポットと、解熱剤の箱が用意されている。 「今日はさっさと寝るのよ」 「さっき起きたばかりだよ」  甲斐甲斐しく世話を焼かれる嬉しさを気取られないように文句を言ってみるが、それすらも彼女はお見通しのようだ。 「それでも寝るの。はい体温計、後で見せて」  有無を言わさずに布団を被せ、ポケットから体温計を取り出して手渡すと、布団の上からぽんぽんと軽く叩く。それが何故かとても心地良くて、ベッドの端から降りようとする彼女の手を、ヨウは咄嗟に掴んだ。 「なあに?今度はプロジェクター?」  一度はぐらかされた仕返しなのか、彼女はわざとらしくそう言った。 「眠るまで、傍に居てくれないかな……」  ヒサは少し驚いたような表情をしたが、直ぐに微笑んで「戸締り確認して来る」と言った。  階下に降りる彼女の足音を聞きながら、ヨウは傍にあった解熱剤を白湯で飲み下した。  この二週間程は地方に出向いたりと休み無しで毎日仕事に当たっていた為、その疲れも相当に溜まっていたのかもしれない。数日振りに我が家に戻ったのをきっかけに、気が緩んだ事もあるだろう。今までも同じ症状はあった。だがこれまで独りで対処してきた事が、今となっては酷く億劫で煩わしいものに思える。そしてこんな男をヒサはどう受けとめているのだろうと思うと、更に沈鬱な気分になる。自分は弱くなった。いや、弱い自分を認める術を知らず、虚勢を張って生きてきたというのが正しい。確かに恵まれた環境で育ったとは言えない。だが育ててくれた祖母の愛情は十分に感じていたし、今は誰よりも大切にしたいと思えるパートナーに出会う事もできた。それでもまだあの背中を許す事が出来ないのは、自分の中にある澱をきちんと吐き出す事が出来ていないからだと今は分かる。  間をおいて二階に上がってきたヒサは、布団には入らず、ヨウの傍に寄り添うように横たわる。 「絵本を読んであげようか」  ヨウは笑った。 「それもいいね」 「でも何か話したいんでしょう?」  ヒサは囁くようにヨウの目を見て答えた。その指が前髪を掻き上げるように触れる。彼女の視線には、こちらの意思を許容する柔らかさがある。この目に見つめられると全てを投げ出してしまいたくなる。 「くだらない話だよ。いつも同じ夢を見て、その後は必ず高熱が出て」  ヒサは黙って聞いている。その目は凪いだ海のように穏やかだ。 「怖い夢?」 「そう、怖い夢。最初は自分はいつも深い海の中にいて、青くて気持ちよくてフワフワ浮かんでる。でも暗い海の底から黒い影みたいな……いや、髪の毛かな、それが触手みたいに上がってきて」  ヨウは一旦言葉を切った。先程の恐怖がじわりと襲ってくる。 「気が付いたら光も見えないような場所に引きずり込まれる。その夢を見ると必ず熱が出るんだ」 「本当に怖い夢ね」  ヒサは神妙な表情をしている。暫し目を伏せた後、静かに口を開く。 「初めて会ったときに言ってたわね。お母さんの髪の毛が風に舞ってるのを覚えてるって」  早くから確信を突いてきた事で、彼女が自分の最も暗い部分の元凶を既に見抜いている事が分かった。やはりこの話になる事は避けられないようだ。だが自ら口火を切った事だ。それにここできちんと向き合わなければ、今この時間が何の意味も成さなくなってしまう。 「話したく無いなら、答えなくていいのよ」  ヒサはヨウの髪の毛を撫でながら静かに言った。だがヨウの意思は固まっていた。 「覚えてるよ。でも舞うなんてきれいなものじゃ無かった。振り返らずに行ってしまったから、あの人がどんな表情だったのかすら分からない。風が強くて、あっちこっちに散らされる黒い髪が未だにここに残ってる」  ヨウは自分の心臓の辺りに手を当てる。 「許せない?」  ヒサの問いにヨウは長く答えられなかった。それは答えを憚るというよりも、様々な感情が交錯し過ぎて一言で表す事が出来なかったからだ。 「……それも勿論ある。でもそれ以上に複雑で。あの後ろ姿に鬼気迫るものがあって、それが酷く怖いって感じたのも覚えてる。寂しかったり、悲しかったり……だから自分でもよく分からないんだ。それがずっと胸の奥につっかえてる感じ」  母と呼ばれる人は、自分が泣き叫んで後を追っても、まるで聞こえないかのように前を向き続けていた。何故あれ程に頑なだったのか、その答えを知らされる事もなく、結局祖母も逝ってしまった。今となっては母の顔すら思い出せない。  ヒサはため息をつく。 「極一般的な家庭でも色んな思いがあるもの。もっと複雑な感情があるのは当然の事よ。お祖母様は何も?」 「うん、家や金銭の引継ぎ以外の事は何も残さずに逝ったから、結局残ってるのはその光景だけなんだ。分からないから、それを思い出す度に大きな穴が開くような気がして」  ヒサは胸元に置いた手に、自分の手を重ねた。 「きっと、パズルが埋められないのね」  ヒサの言葉は妙に腑に落ちた。そうなのだ。たった一つのピースが無いだけで、ヨウの記憶や思念が完成する事は無い。それはこれからも続くだろう。少し傾ければ崩れ落ちる穴の空いたパズルのように、自分は不安定であり続ける。そしてその穴に澱が溜まり続ける事で、自分は少しずつ何かを削り続けているのかもしれなかった。 「ヒサといると怖くなる」 「どうして?」  ヒサは不思議そうに言う。この感覚が分かるはずも無い。いつか愛する者に去られる、体が千切れるような苦痛と悲しみ、そしてその予感を。だがそれらを自分と共有して欲しいと願うのは、全く以て身勝手な話であるとも分かっている。 「ヒサが居なくなった時の事を考えてしまうから」 「それは私も同じよ。でも私から消える事は無いわ。貴方が望むだけ傍にいる」 「じゃあ、俺がもう来なくていいって言えば、次の日から居なくなる?」 「天邪鬼ね」  ヒサが呆れたように、ヨウの鼻先を摘まむ。そのまま顔を寄せると額が触れ合う。 「全部を補えるとは思わない。でも貴方のここの一部に私を足して欲しいの」  ヒサはヨウの胸元に触れる。彼女の言葉は漣のように密やかで、けれど穏やかな中にも強い意志のようなものがあった。彼女なりの覚悟を感じたが、果たしてそれが永続的に保守出来るのかなど誰にも分らない。この後に及んで、真っ向から人を信じる事が出来ないでいる自分が酷くもどかしかった。  ヨウが返答を躊躇っている事を察知したのか、ヒサはその頬を撫でながら言った。 「良いのよ。私がそうしたいだけ」  一歩引いた言葉を聞いた時、彼女を傷付けたと感じた。本当はこんな事を言わせたいのでは無い。初めて泊まりで出掛けたあの時のように、手放しで自分を求める彼女の姿を愛おしいと思った。立ち入らないで欲しいと思う反面、あの時のように感情を剥き出しにしてぶつかってくる彼女であって欲しいとも思う。自分の中にはそうした矛盾が何時も混在していて、それが今後少しずつ彼女を疲弊させる事も十分に理解していた。  ヨウは目の前の恋人を抱き締める。 「俺はヒサを壊すかもしれない」  ヒサは黙って身を任せている。 「ヒサが黙って消えたりしないのは分かってる。でもそれをどうやって自分に信じさせたらいいのか分からないんだ。信じたいけど、そう思う度にあの黒い影が現れる。同じようにヒサの全てを雁字搦めにして、いつかヒサを壊してしましそうで怖い。でも分かってても、ヒサと離れたくない。ヒサが欲しい」  ここまで縋るように思いを吐露した事は初めてだった。情けない程にこの胸の中の女性に恋い焦がれている事に気付かされる。  ヒサは何度もヨウの頬を撫でた。黒目がちな大きな瞳が、紺青の波をたたえて静かに揺れる。 「心配しなくても私はヨウの傍にいるわ。ヨウが望む限り離れない。だから安心して」  ヨウが口を開きかけると、ヒサは唇に触れてそれを静かに制した。 「今の盛大な告白でまた熱が上がってるわよ。今日はもう眠って」  言いながらヒサは額を合わせ、ヨウの両手を取った。ひんやりとした指先が、自分の熱を吸い取るように温かくなっていく。静寂の中で二つの心音が重なり合い、まるで彼女の中に取り込まれるように、全てが同化する感覚を覚える。それは寂寥とした静けさの中、ただ青が広がる海中に沈む心地よい浮遊感に似ていた。  物心ついた時から海が好きだった。それが何故なのかはわからないが、そこには美しいものも恐ろしいものも全てが沈んでいる。その最も美しい海の花が、今自分を押し包んで、正に自分が眠るゆりかごを揺らしていた。周りにはそれを取囲むように、あの黄色い花弁が舞っている。優しくも強い芳香がヨウを飲み込んでいく。もっと話したい事が色々とあったのだが、ヨウの瞼は自然と重くなり、そのまま深い淵に沈むように心地良い眠りの中へ落ちていった。    早朝目が覚めると、ベッドにはヨウだけが残っていた。辺りは陽の光の片鱗が僅かに感じられるだけで、空はまだ炭が滲むように仄暗い。ヒサの姿は無く、ただあれからずっと起きて看病を続けてくれたのだろうという事だけは分かった。サイドテーブルに置かれた予備らしき幾枚ものタオルとTシャツは、大量の発汗と戦った証拠である。  ヨウはゆっくりと体を起こす。耳に詰まった感覚は無く、体の痛みもほぼ消えている。ただ猛烈な喉の渇きと、空腹感が一気に押し寄せる。 「ヒサ?」  呼び声に答える様子が無かったので、ヨウはそのままゆっくりと一階へ降りた。キッチンで軽く口を濯いだ後、一気に水を飲むと、枯れた喉がようやく一息ついた心地がする。その時に脱衣場の洗濯機が稼働している事に気が付いた。ヨウは何も考えずそこに入り、浴室の引き戸をガラリと開ける。 「きゃあ!何?!」  そこにはシャワーを浴びるヒサの白い裸身があった。全く予期していなかったヨウは思わず背を向ける。 「ごめん、洗濯機が動いてたから……」 「いいから閉めて!」  あれだけ肌を合わせて来たというのに、耳まで赤く染めて恥ずかしがる姿が愛おしく、ヨウは思わずそのまま自分も衣服を脱ぎ捨てた。 「俺も一緒に入る」  言いながら、そっぽを向くヒサの背に沿う。彼女の背中は始めから自分の為に造られたように、ヨウの体躯に隙間無く収まる。 「……セックスしようの間違いじゃないの?」 「そうとも言うね」  ヒサが仰向き、二人は唇を重ねる。食むように何度も何度も。 「随分元気な病人ね」  ヒサは笑いながら既に起き上がり始めたヨウ自身に触れる。 「腹減ってるんだ」  また口付ける。彼女の唇から、肌の奥底から、あの舞い散る花の香りがする。その花にあやされて、ヨウはまたヒサという海の中に沈む。ゆりかごに揺られ、深い青に染まる。そこにあの黒い影が来ることはもう無い。
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