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逃亡
次第に私の瞳に映っていた日常は、おどろおどろしい変貌を遂げた。
蛍光灯の白い光の加減が、黄色いシミの表面に濃淡を、そこに立ち込めた煙が手伝い、顔の輪郭を形成し始めた。
左方は頬骨が浮き出た男の輪郭、反対は丸いふっくらとした女の輪郭を描いた。「それ」は縦の皺が目立つ薄い唇で顔を統一する。
左方は苦難と苦痛の色を滲ませた細い目を、そして丸みを帯びた片方は笑い皺を寄せて非対称な構図が引きつったような微笑を見せていた。
奇怪な人相は、乾いた唇を上下に動かした。何かを喋りかけているようだが、聞こえない。いや私は聞く耳を持たんとしたのかもしれない。
無音の指令は、化学物質が与えた脳の命令をかき消し、神経のネットワークに緊張を伝えた。しかし、私はどこか郷愁的な感触を肌に感じたのだった。
幼児が暗闇を、猫のように注視し、畏怖に産毛を逆立て、やがて言いようのない孤独が迫り、対抗する術を知らず泣きじゃくる。そんないつかの記憶を同時に思い出していた。
まもなく私は唐突なめまいに苛まれた。
私は目を閉じた。
しかし、瞼の裏にまで「それ」は追いかけてくる。
別の事を考えようか。
「それ」をかき消そうと手当たりの記憶を抽出して練った空想の中へ逃げ込んだ。
見渡すかぎりに煌々と輝くススキ野原が青空と並行して、どこまでも心地の良い爽やかな空気を放っている。そんな中に大きく存在感を放って鎮座する水門があった。
分厚く何者も干渉することのできない門。
8メートルほどの高さに、寺社の入り口に置いてあるような瓦造りの屋根の下には重厚な鉄の扉が水路を噛み込んでいる。
水門の横は同じ程の高さのコンクリートの壁がススキ野原を横断してそびえ立っている。
水門の向こう側では、並々とした水量の貯水池をせき止めている。強弱をつけながら一定の間隔で門の内壁へと寄せては引き返すを繰り返していた。
それは利口な赤子が母親を煩わすことなく優しい寝息を立てていたに過ぎなかった。
対称に表側の干からびた水路は小さな町の中心の噴水へと続いている。
町というべきだろうか、ひどく滑稽に、そして様々な時代の、それも古今東西の家々が乱立している。
不器用で不格好な町らしき町だ。
例えば、戦後に見られた木造の長屋や、縁側がある立派な一軒家、西洋の赤レンガの家が噴水を中心に円を描くように囲っている。
そんな家々の頭上の合間を電信柱から生える幾多もの電線が蜘蛛の巣のように重なり合って、かろうじて町らしさを演出している。
つらつら並んだ電柱と石畳の道はさらに噴水の向こうへと伸びて、勾配のある斜面の坂道が続いて、ちぐはぐで時代錯誤な家々を抜けると西洋のルネサンス建築風な贋物の城がそびえたっている。
人はどこにもいない。手足も肉体もない私の視点だけが存在する。
無防備で透明な私だけが視点を移動することが可能で、好きに家の壁を通り抜けさえもできる。
完璧な静けさと制約のない自由。
もしにぎやかさが欲しくなれば花火を上げればよいし、畳の上に大量の宝石を置いて、美に酔いしれることもできる。しかしこの不完全であるが完璧な町に私は十分満足だった。
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