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準備
タバコを大きく吸い込んだ。気道を通り、胸を焦がす軽度の火傷のような痛みが足の感覚を思い出すに至り、私の肉体の所在するところへ連結させた。
私を襲った嵐のような焦燥は、一度つらつらと並んだ家並みをなぎ倒したが、驚くほどの速度で元の建築物へと修繕された。
水門は再び水を貯蓄するため閉じ、穏やかな凪の状態が私の平静を取り戻した。
短く力のなくなった吸い殻を薄汚れた床から突起したような小さな子供ほどの施設用灰皿の口へ投げ入れる。
相も変わらず部屋は薄黄色い。私が吐き出した煙はもう換気扇が吸い込み、うるさい音を放っている。どこかの部品が壊れているに違いない。
視点を床の隅々までおもむろにじろじろと追いやる。
踏み倒されたコンクリートは靴の砂や泥といった汚れを被っているも堂々と己の無機質さを誇っている。壁と床がつながる淵は、汚れがたまって黒ずんでいる。
先ほどの黒い感覚が幻肢痛となって呼び起こされそうだった。
何となく私は「それ」を出現させた黄色いシミの位置へおそるおそる目を向けた。
目をそらしてしまうことは、私の世界を壊してくれた屈辱に負ける事になる。そんな気になる。
奇妙な怖いもの見たさの好奇心が沸々と滲むのを感じる。
私はその欲望に、威厳を取り戻すためという大層な大義を糊付けた。
私は知っている。あの痛みも、奇怪な顔面も、痩せこけた頬の男も、女性の微笑も。
固く閉ざされた水門の向こう側の貯水池の奥底に沈殿する澱にきっと「それ」も待っているに違いない。
私は二本目のタバコに火を付けて、貯水池を潜ろうと考えた。
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