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一 その山、霊山につき
「本日は高尾山に登ります」
「へっ?」
タヌキのアンナ・カレヱニナを胸に抱え、めずらしく朝食の席に現れた幻想文学作家・八来町八雲は、前置きもなく告げた。
そのとき食堂にいたのは大阪から来た新人編集者・本郷虎丸。そしてタカオ邸に住む作家のひとり・千代田紅。無言で行き来する人格を持たない使用人たち。紅の弟であるメイドの茜はすでに学校に行っていた。
──何を言い出すねん、この人は。藪から棒に。
虎丸がタカオ邸にやってきてから、はや一週間が過ぎていた。最初の数日こそいろいろな出来事があったが、今は怪奇現象と無関係の比較的穏やかな洋館生活を送っていたところだ。
もちろん休暇中というわけではないので、大阪の会社から電報や電話で仕事の指示は飛んでくる。まだまだ新人の虎丸に命じられるのは、東京府内の出版社や作家宅を回る雑務である。
朝一番の乗合バスで八王子駅まで行き、郵便局で手紙と電報を受け取る。公衆電話で詳細を確認する。鉄道を使って市内を移動し、用件を済ませる。
そして午後のバスでタカオ邸に戻り、夕方から夜は手紙を書いたり文書を作成したりと、それなりに忙しく充実した日々を過ごしていたのだ。
受け持ちの仕事が一段落したので今日は八雲に約束の原稿をせっつこう、などと考えていた矢先だった。
「高尾山て、裏の山ですよね? 登山ってことですか?」
「はい」
「それはそれは、大変ですねぇ。東京の山っていうても、そこそこ険しいって話やないですか。八雲せんせは見るからにひ弱なんやし、遭難せんようにしてくださいよ~。あっ、最近神隠し事件が起こってるって新聞で読みましたわ。消えるのは政治家とか偉い人って話ですけど、気をつけるに越したことないですからねぇ~」
「何を他人事のように言っているのですか。あなたも一緒ですよ」
予感はしていたが、どうにかして避けるために深く追求しないふりをしていたというのに。残念ながら流すことは失敗したようだ。
であれば断固拒否するしかないと、虎丸は抗議を始めた。
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